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卒業祈祷週 メッセージ④

 今日も卒業祈祷週のメッセージの中から、ご紹介します。

 計り知れない大きな愛で私たちを包んでくださる神様が共にいてくださるので、神様がしてくださることを信じたい、不安はないと語ってくれました。

 

「神様は見捨てない」

 皆さんは、自分は常に神様のことを信頼していて、神様に対して不安な気持ちはないと、胸を張って言えるでしょうか。以前の私は、神様を信頼していると、自信を持って言うことが出来ませんでした。

 東京三育小学校で過ごした六年間で、神様のことや聖書の内容についてたくさん学びましたが、神様への不安が取り除かれるのではなく、むしろ不安が少し増してしまったというのが正直な思いでした。

 なぜなら、天地創造やノアの方舟の話、重い皮膚病の十人を癒されたことや五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人を養った話など、どれも現実離れしていて「神様は本当に存在されているのかな、神様が本当にされたことなのかな。」という疑いの気持ちがふくらみ、不安な思いになってしまったからです。

 その様な私の思いも、自分自身でも気付かないうちに変化をしていました。そのことに気が付いたのは、まさに卒業祈祷週で話す内容について考えている時でした。6年間の聖書の学びについて思い起こしている時、私の心に強く残っていたのは、神様は罪人の私たちを見捨てることなく、人間を罪から救うためにイエス様を地上に送ってくださった、神様の大いなる愛についてでした。

 神様は天地を創造され、最後に御自分にかたどってアダムとエバを創造されました。神様はアダムとエバに、エデンの園に生えている全ての木からなる実を取って食べてよいを言われましたが、園の中央に生えている善悪の知識の木からは、決して食べてはいけないと言われました。しかし、アダムとエバは皆さんもよく知っているように、サタンの誘惑によって食べてしまうのです。神様との約束を破ってしまい、罪を犯してしまったために、人間は死ななくてはいけなくなりました。

 ですが、サタンの誘惑に負けて罪を犯してしまったアダムとエバに対して、そして罪を犯してしまう私たちに対して、神様は見捨てることなく寄り添ってくださるのです。神様は、私たちを罪から救うための計画を既にご準備されていたのです。それは、独り子であるイエス様を地上に送り、私たちの罪と引き換えに十字架にかかって死んでくださるという、救いの約束をしてくださったのです。

 アダムとエバがエデンの園を追放された後も、聖書には神様から離れてしまう人や偶像礼拝をしてしまう人など、罪にあふれた世界になってしまいますが、それでも神様は人間を見捨てることなく、マリアが聖霊によって身ごもり、イエス様が誕生されるのです。神様はアダムとエバにした預言の約束を成就してくださったのです。

 イエス様が私たちの罪を救うために十字架にかかって死なれ、3日後によみがえられて天に戻られました。そして、神様は私たちに「再臨」という新たな希望の約束をしてくださいました。再びイエス様がこの地に来られて、私たちを天国へと連れて行ってくださる約束です。

 神様は私たちを見捨てることなく、イエス様を地上に送り、イエス様の十字架によって罪から救ってくださる約束を果たしてくださいました。愛する独り子であるイエス様を、私たちを救うために与えてくださった神様の愛に応えるために、私は神様を信じたいと思います。

 聖書をお読みします。

イザヤ書 41章9節

「わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」

 神様が私たちのことを選んでくださっていて、決して見捨てないとおっしゃってくださっています。この聖句を読んで、皆さんは神様に対して不安はないと胸を張って言えますか。今の私は、神様は決して見捨てられないお方であるから、神様に対して不安はないと、胸を張って言うことが出来ます。

卒業祈祷週 メッセージ③

卒業祈祷週から3人目です。

だれかのために、だれかの必要に応えて生きることを大事にしたいと語ってくれました。

 

「助ける」

 みなさんは、自分が困っているときや辛い思いをしているときに、誰かに助けられた、慰められたことはありますか?私は今まで何回も誰かに助けられてきました。今からその中で印象に残っている話をします。

 一年生の時のスケート教室で私は横転してしまい、右手をスケートリンクにぶつけて骨折してしまいました。翌日、病院に行き右手が動かないように固定をして、包帯を巻いてもらいました。

 夜ご飯の時間になりご飯を食べるときに、私は利き手の右手が包帯で巻かれているので使えず、左手でご飯を食べることになりました。しかし、なかなかうまく食べられずに、私は悔しくて泣いてしまいました。私には三歳上の兄がいるのですが、私の横で食事をしていた兄は、私が食べられないで泣いているのを目にして、自分は骨折をしていないのに私と同じように左手でご飯を食べ始め、

「確かに左手で食べるのは難しいね。」

と言ってくれたのでした。このような言葉を掛けられたとき、私は心が軽くなりました。自分だけが苦しんでいたのを、分かち合ってくれる人ができたからです。それからの生活も右手が使えず大変でしたが、私の心に寄り添ってくれた兄の言葉のおかげで頑張ることができました。

 聖書には次のような言葉があります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

フィリピの信徒への手紙 2章6~8節

 私はこの聖句を東京三育小学校で学び、イエス様は自分を低くされ人間になり、自分は罪を犯していないのに、私たち人間を愛してすべての罪を背負って死なれ、救ってくださったこと知り、その大きな神様の愛に応えたいと思うようになりました。

 神様の愛への応え方は、イエス様のように「誰かのために」生きるということです。係活動やファミリー活動、委員会活動やクラブ活動、授業や日常の生活の中において、困っている下級生や同級生がいたら、私の心を分ち合ってくれた兄のように、私のできる方法や範囲でその人の必要を考えて、「助ける」ことを心がけるようにしてきました。

 4月から中学校に入学し、新しい生活が始まります。その中においても、東京三育小学校で学ぶことができた大きな神様の愛とイエス様の十字架に応えて、今までよりもずっと「助けられる」のではなく、「助ける」ことを目指していきたいと思います。そして、皆さんも神様の愛に応えて、誰かのために生きる人になってください。

卒業祈祷週 メッセージ② 

 1週間にわたって行われた6年生全員による卒業祈祷週の中から、今日も一人のメッセージをご紹介します。

 6年間の学校生活やお礼拝をとおして、聖書に書かれているイエス様がどのようなお方であるのか、そのイエス様から自分がどのような人になりたいのかを語ってくれました。

 

「イエス様の友情」

 今年の6年生の学級テーマは「FRIEND」です。そこで、「友達」に関する聖句について考えていきたいと思います。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

ヨハネによる福音書 15章12~13節

 僕はこの聖句を初めて読んだとき、川でおぼれている子どもを助けようとして亡くなってしまった人や、駅のホームから落ちてしまった人を助けようとして電車にひかれてしまった人のニュースを目にしたことはありましたが、今の日本では戦争でも起きない限り、友達のために命を捨てるという状況が自分自身に起こることは到底思えなくて、どういう意味なのか分からなかったです。

 そこで、当時の担任の先生にこの聖句の意味を聞いてみると、うろ覚えですが、「自分の思いより他の人の思いを尊重し、その人のために良いことをする。」と答えてくださいました。

 先生の言葉から自分の経験を思い出してみると、自分のためではなくて他の人のためにしたことや、他の人が自分のためにしてくれたことが、いくつか思い浮かびました。

 例えば、掃除の時間に雑巾の担当の人が休んでいたら、自分の役割だけでなく休んだ人の雑巾の分も掃除してあげたり、算数の問題の解き方が分からない時に、友達に聞いて教えてもらったりしたことなどです。このような状況があると、相手から感謝の言葉を伝えてもらえたり、相手の存在が大切に思えたりして嬉しい気持ちになります。

 僕たちは、友達のために命を捨てることは簡単なことではありませんが、誰かのために何かをしてあげることはできると思います。ですが、最初に読んだ聖句の内容を話されているイエス様は、この話をされた後に人間を罪から救うために十字架にはりつけにされて死なれるのです。

 イエス様は人間の罪を背負い、自分の死を受け入れておられることが、先程の聖句から伝わってきます。イエス様は罪深い人間を「友」と呼んでくださり、ご自分の命を捨てて、僕たちの罪を赦してくださったのです。

 イエス様は聖句の最後に「これ以上に大きな愛はない」と言われています。まさにイエス様は十字架の死によって、人間への最大の愛を表してくださいました。このことから、イエス様が僕たちのことを友として受け入れてくださっていることが分かり、大きな喜びを感じます。

 イエス様のように友達のために命を捨てることは難しいですが、罪人や病人など心や体に重荷を負っていた人達に寄り添っていたイエス様のように、損得による考え方や見返りを求めるのではなく、友達のために、誰かのために、自分自身が何かをできることを喜んで行える人になりたいです。

卒業祈祷週 ①

 6年生による卒業祈祷週が1週間行われました。

 6年生全員で選んだテーマ聖句、

ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

が掲げられ、東京三育小学校で過ごした6年間で、神様と自分自身との関係を振り返り、全員が全校児童・教職員・保護者を前にメッセンジャーとして立ちました。

 卒業し、新しいステージに進むにあたり、この学校でなければ得られなかったもの、自分の心の中心に据えるものは何か、本当に大切なものは何かを自分の言葉で語ってくれました。

 今週は、何人かのメッセージを掲載いたします。

 

 

神様を信じる」

 皆さんは、イエス様や神様のことをどのような方だと考えていますか。恐らくほぼ全員が、誰に対してもとっても優しくて、サタンの誘惑から守ってくれて、罪を許してくださる存在、というように考えているのではないかと思います。

 僕も今はそのように思っています。ですが、東京三育小学校に入学した当時は、イエス様や神様を信じていませんでした。そもそも、東京三育学校に入学した主な理由は、聖書の内容やイエス様や神様のことを知りたいというわけではなく、先に入学していた姉と同じ学校に通いたいと思ったからです。

 なので、礼拝や聖書の授業でイエス様や神様の話を聞いても、信じられませんでしたし、信じようとも思いませんでした。どうして天地を創造されたのか、どうして自分を裏切ったユダを許したのか、どうして自分の息子に人間の罪を肩代わりさせたのか、どうしてそんな事ができるのか、僕には全く分かりませんでした。聖書の話を聞いても、書かれていることを読んでも、そんなにすごいことができる訳がない、そんなに優しい人間はいる訳がない、と否定的に思っていました。

 ですが、そのような僕の心にも変化が生まれてきました。学年が上がるにつれて、長く感じていた礼拝の話も内容が分かるようになったり、文字ばかりで難しく感じていた聖書も自分で読むことができるようになったりすると、だんだんと聖書の教えやイエス様や神様がどのような方なのかが分かるようになってきました。

 神様が天地を創造されたのは、人間を創造して愛するためだということ。自分を裏切ったユダも憎まなかったのは、それだけ人間を愛しておられるからだということ。自分の息子に人間の罪を肩代わりさせたのは、全ての人間を愛しておられるからだということ。

 イエス様と神様がいかに僕たち人間を愛してくださっているかが、心と頭で感じられるようになると、今までの疑問や否定的な思いがだんだんと消えていきました。

 イエス様、神様を信じられるようになった理由がもう一つあります。それは、東京三育小学校の人たちとの関りを通してです。一年生の時のバディの六年生や、ファミリーリーダーの上級生の人たちは、下級生の僕たちに学校のことを優しく丁寧に教えてくださいました。クラスの友達も、初めの頃はお互いを理解していなくて喧嘩をすることもありましたが、僕がイエス様や神様のことが分かっていったように、クラスの友達も聖書の教えに理解を深めると、お互いに助け合ったり、楽しく会話をしたりすることができるようになりました。

 東京三育小学校の人達は、イエス様を模範とした校訓「誰かのために」の教えを実践していて、その人達からイエス様を感じることができたからだと思います。

 僕はまだ神様について知らない事がいっぱいあります。だから、中学校に進学しても、大人になっても、神様がどんな方なのかを知ることを続けていくことで、神様を信じていきたいと思います。

 最後に聖句をお読みします。

ヨハネによる福音書 14章1節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」