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「ARIGATO:感謝」
校長 平田 理
2022年度3学期も残すところ僅かとなっています。校内では卒業式に向けたプログラムの準備や歌の練習が続けられています。クラスメイトばかりか、学年を越えたつながりも少しずつ深まったこの季節ですが、間もなく「お別れ」を迎えます。
先日の児童礼拝で「ARIGATO:感謝」の大切さを伝えました。2011年3月に発生した大震災の復旧活動の最中、「トモダチ作戦:Operation TOMODACHI」に参加した在日米軍隊員たちは、物資運搬の任務中に上空から浜辺に瓦礫で描かれた「ARIGATO」のローマ字を発見し、苦しい現実に直面しながら他者への感謝を忘れない被災者の姿勢に、驚きと共に感動を覚えたと記しました。日米関係とりわけ基地問題は多くの課題を抱えていますから、感謝すべきとわかっていても言葉や行動に表すことは中々難しいことです。自分のことで精一杯の苦境にありながら、「ARIGATO」を忘れなかった東北の皆様に大切なことを教えて頂きました。
聖書の中(新約聖書 ルカによる福音書 17章)に、重い皮膚病で苦しんでいた10人が、イエス・キリストから癒され、病とともに世間からの偏見や差別から解放されるお話があります。病人たちは重い病気を癒され歓喜したことでしょう。しかし残念なことに、癒された感謝をキリストに伝えたのは、たった一人でした。イエス・キリストはその人に「癒されたのは10人ではなかったか」と尋ね、「あなたの信仰があなたを救った」と、感謝を忘れなかった人をさらに祝福されました。
日常生活においても、有形無形のたくさんの支えや助けがありますが、多くの場合「当たり前」の中に溶け込んで「感謝」が見えなくなります。親しい間柄や家族ではさらに「ありがとう」を見失っているのかも知れません。言葉にできない感謝が伝わる時もありますが、感謝の思いを込めた「ありがとう」、笑顔、仕草は受け手に伝わるばかりか、心の芯を温めるのではないでしょうか。
三育小学校で出会ったお友達、先生、色々な学びの時間や体験を感謝できる子どもであって欲しいです。私たちはどんな時にも、小さな文句を口にすることも、小さな感謝を口にすることもできます。しかし、どちらをするにしても、それが人生の習慣となり、品性を築いていきます。願わくは「ありがとう」を互いに伝え合う三育小学校でありたいです。
「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。」(フィレモンへの手紙 4節)
学校紹介「校長挨拶」はこちらをご覧ください。
西武線沿線合同相談会のお知らせ(1/22実施)
校長通信を更新しました
「WWJD?:私淑」
校長 平田 理
3学期が始まりました。寒さが続いていますが、半そで半ズボンで元気に活動する子どもたちです。短い3学期ですが、まとめの学期として子どもたちが大きく成長する時期です。新しい学年・進学に向けて良い準備の期間となるよう寄り添っていきたいと思います。
昨年のサッカーワールドカップ・カタール大会での日本の躍進は世界に衝撃を与え、アジア諸国の活躍とサッカー先進国や伝統国の敗退が衝撃と共に報道されました。多くの若い日本代表選手たちが物怖じすることなく強豪たちと対峙し、時には凌駕する活躍を観ると「W杯初出場」を待ち望んだ世代には隔世の感があり、確かに「新しい時代」を見せて頂きました。
校庭においても、この活躍を受けてサッカー熱が広がり、子どもたちの歓声が響いています。「俺は三苫選手のマネ」「じゃ、僕は堂安選手」「私は吉田選手」次々とお気に入りの選手の名前を連呼しながら、ボールを蹴っています。見よう見まねでフェイントをかけ、シュートし、ガッツポーズはさながら「ものまね大会」です。サッカー選手への憧れと共に「〇〇選手だったら、きっとこうプレーするに違いない」と、「まね」を繰り返し遊んでいます。
誰もが様々な「お手本」に影響を受けているのではないでしょうか。走り方、蹴り方、投げ方、握り方、道具の使い方、言葉遣いや振る舞いまで、少なからず「だれか」の影響を受けています。身近な家族や出会った友人、先生、時には本や映画が「お手本」として影響を与えるのです。
「What would Jesus do?:WWJD?(イエス様ならどうする?)」というキリスト教では良く知られる英語の慣用表現があります。様々な判断や決断をする場面で自問自答するのです。「模範:モデル」のイエス様だったらどうするのだろう?と自らの考えや思いの基準とするためです。孟子の残した「私淑」も同様の意味です。直接、師や模範からの教えは受けられずとも、秘かに尊敬し学び、その教えや心を獲得していく姿勢です。イエス・キリストを直接知り、模範とできた弟子は少なかったのですが、その弟子たちから教えを受けた多くの人たちがキリストを知り、「キリストに倣う者」(コリントの信徒への手紙一 11章1節)になったことによりキリスト教は世界に伝播されました。
私たちは日毎の大小の判断や決断の延長に生き、歩むのですから、時に立ち止まって、「これで良いのか」「WWJD?」と静かに問い、それぞれの「新しい時代」に向けて、時を積み重ねることが大切ではないでしょうか。
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