「めざしている」
校長 平田 理
新型コロナウイルス感染症が収まるところを見せない中、2学期を迎えました。それでも今年度は昨年度のように始業式を遅らせることなく開始できましたので、感謝なことです。日焼けし、背も伸び、一回り大きくなった児童の元気な顔を見ると、2学期も教育活動を止めることなく無事に終えることができますようにと祈らずにはいられません。
少し前になりますが、本屋大賞受賞作(2015年)で宮下奈都さんの『羊と鋼の森』という作品がありました。若いピアノ調律師が自立していく姿を描いた物語で、後に女優姉妹が共演する映画(2018年)にもなりました。本校でも校内のピアノ調律を定期的にお願いしているので「調律師」という職業にも興味があり「ななめ読み」すると、広島県出身の詩人、小説家で被爆者としても知られる原 民喜(はらたみき 1905-1951)の一文が引用されていて、思わず引き込まれました。
主人公の外村直樹が先輩の調律師 板鳥宗一郎にこう尋ねる場面があります。「板鳥さんはどんな音を目指していますか。」板鳥は「外村くんは原 民喜を知っていますか。」と言って、「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体。」の一文を引用しました。板鳥は「原民喜が、こんな文体に憧れていると書いているのですが、しびれました。私の理想とする音をそのまま表してくれていると感じました。」と板鳥がめざしているピアノの音について、丁寧に言語化して後輩に伝えるのです。「技は見て盗め」「○○年で一人前」といった職人気質な伝え方ではなく、見つめている先にある目標を「静かに澄んで懐かしい音、厳しくも深い、美しくも確かな音づくり」を目指していると伝えます。文体と調律の違いこそあれ、めざしている領域に「しびれた」ことが伝わってきます。
使徒パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。(フィリピの信徒への手紙第3章13~14節)と興味深い表現で目標の目指し方を記しています。「後ろのものを忘れて・・・目標を目指してひたすら走る」は、ただ単に過去へのこだわりや執着から離れ、全て忘れて前向きに歩みなさい、との勧めでは無さそうです。私たちは過去の蓄積の中で生きており、過去の全てを忘れ、無かったことにはできないからです。
「後ろのものを忘れ」という言葉には、過去の自分にあった失敗や弱さ、苦難、罪の全てをキリスト・イエスに担って頂き、その恵みによってのみ、目標をめざして新しく歩み出せます、という「厳しくも深い」「美しくも確かな」励ましが込められている気がします。
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