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卒業祈祷週 メッセージ③

卒業祈祷週から3人目です。

だれかのために、だれかの必要に応えて生きることを大事にしたいと語ってくれました。

 

「助ける」

 みなさんは、自分が困っているときや辛い思いをしているときに、誰かに助けられた、慰められたことはありますか?私は今まで何回も誰かに助けられてきました。今からその中で印象に残っている話をします。

 一年生の時のスケート教室で私は横転してしまい、右手をスケートリンクにぶつけて骨折してしまいました。翌日、病院に行き右手が動かないように固定をして、包帯を巻いてもらいました。

 夜ご飯の時間になりご飯を食べるときに、私は利き手の右手が包帯で巻かれているので使えず、左手でご飯を食べることになりました。しかし、なかなかうまく食べられずに、私は悔しくて泣いてしまいました。私には三歳上の兄がいるのですが、私の横で食事をしていた兄は、私が食べられないで泣いているのを目にして、自分は骨折をしていないのに私と同じように左手でご飯を食べ始め、

「確かに左手で食べるのは難しいね。」

と言ってくれたのでした。このような言葉を掛けられたとき、私は心が軽くなりました。自分だけが苦しんでいたのを、分かち合ってくれる人ができたからです。それからの生活も右手が使えず大変でしたが、私の心に寄り添ってくれた兄の言葉のおかげで頑張ることができました。

 聖書には次のような言葉があります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

フィリピの信徒への手紙 2章6~8節

 私はこの聖句を東京三育小学校で学び、イエス様は自分を低くされ人間になり、自分は罪を犯していないのに、私たち人間を愛してすべての罪を背負って死なれ、救ってくださったこと知り、その大きな神様の愛に応えたいと思うようになりました。

 神様の愛への応え方は、イエス様のように「誰かのために」生きるということです。係活動やファミリー活動、委員会活動やクラブ活動、授業や日常の生活の中において、困っている下級生や同級生がいたら、私の心を分ち合ってくれた兄のように、私のできる方法や範囲でその人の必要を考えて、「助ける」ことを心がけるようにしてきました。

 4月から中学校に入学し、新しい生活が始まります。その中においても、東京三育小学校で学ぶことができた大きな神様の愛とイエス様の十字架に応えて、今までよりもずっと「助けられる」のではなく、「助ける」ことを目指していきたいと思います。そして、皆さんも神様の愛に応えて、誰かのために生きる人になってください。

卒業祈祷週 メッセージ② 

 1週間にわたって行われた6年生全員による卒業祈祷週の中から、今日も一人のメッセージをご紹介します。

 6年間の学校生活やお礼拝をとおして、聖書に書かれているイエス様がどのようなお方であるのか、そのイエス様から自分がどのような人になりたいのかを語ってくれました。

 

「イエス様の友情」

 今年の6年生の学級テーマは「FRIEND」です。そこで、「友達」に関する聖句について考えていきたいと思います。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

ヨハネによる福音書 15章12~13節

 僕はこの聖句を初めて読んだとき、川でおぼれている子どもを助けようとして亡くなってしまった人や、駅のホームから落ちてしまった人を助けようとして電車にひかれてしまった人のニュースを目にしたことはありましたが、今の日本では戦争でも起きない限り、友達のために命を捨てるという状況が自分自身に起こることは到底思えなくて、どういう意味なのか分からなかったです。

 そこで、当時の担任の先生にこの聖句の意味を聞いてみると、うろ覚えですが、「自分の思いより他の人の思いを尊重し、その人のために良いことをする。」と答えてくださいました。

 先生の言葉から自分の経験を思い出してみると、自分のためではなくて他の人のためにしたことや、他の人が自分のためにしてくれたことが、いくつか思い浮かびました。

 例えば、掃除の時間に雑巾の担当の人が休んでいたら、自分の役割だけでなく休んだ人の雑巾の分も掃除してあげたり、算数の問題の解き方が分からない時に、友達に聞いて教えてもらったりしたことなどです。このような状況があると、相手から感謝の言葉を伝えてもらえたり、相手の存在が大切に思えたりして嬉しい気持ちになります。

 僕たちは、友達のために命を捨てることは簡単なことではありませんが、誰かのために何かをしてあげることはできると思います。ですが、最初に読んだ聖句の内容を話されているイエス様は、この話をされた後に人間を罪から救うために十字架にはりつけにされて死なれるのです。

 イエス様は人間の罪を背負い、自分の死を受け入れておられることが、先程の聖句から伝わってきます。イエス様は罪深い人間を「友」と呼んでくださり、ご自分の命を捨てて、僕たちの罪を赦してくださったのです。

 イエス様は聖句の最後に「これ以上に大きな愛はない」と言われています。まさにイエス様は十字架の死によって、人間への最大の愛を表してくださいました。このことから、イエス様が僕たちのことを友として受け入れてくださっていることが分かり、大きな喜びを感じます。

 イエス様のように友達のために命を捨てることは難しいですが、罪人や病人など心や体に重荷を負っていた人達に寄り添っていたイエス様のように、損得による考え方や見返りを求めるのではなく、友達のために、誰かのために、自分自身が何かをできることを喜んで行える人になりたいです。

卒業祈祷週 ①

 6年生による卒業祈祷週が1週間行われました。

 6年生全員で選んだテーマ聖句、

ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

が掲げられ、東京三育小学校で過ごした6年間で、神様と自分自身との関係を振り返り、全員が全校児童・教職員・保護者を前にメッセンジャーとして立ちました。

 卒業し、新しいステージに進むにあたり、この学校でなければ得られなかったもの、自分の心の中心に据えるものは何か、本当に大切なものは何かを自分の言葉で語ってくれました。

 今週は、何人かのメッセージを掲載いたします。

 

 

神様を信じる」

 皆さんは、イエス様や神様のことをどのような方だと考えていますか。恐らくほぼ全員が、誰に対してもとっても優しくて、サタンの誘惑から守ってくれて、罪を許してくださる存在、というように考えているのではないかと思います。

 僕も今はそのように思っています。ですが、東京三育小学校に入学した当時は、イエス様や神様を信じていませんでした。そもそも、東京三育学校に入学した主な理由は、聖書の内容やイエス様や神様のことを知りたいというわけではなく、先に入学していた姉と同じ学校に通いたいと思ったからです。

 なので、礼拝や聖書の授業でイエス様や神様の話を聞いても、信じられませんでしたし、信じようとも思いませんでした。どうして天地を創造されたのか、どうして自分を裏切ったユダを許したのか、どうして自分の息子に人間の罪を肩代わりさせたのか、どうしてそんな事ができるのか、僕には全く分かりませんでした。聖書の話を聞いても、書かれていることを読んでも、そんなにすごいことができる訳がない、そんなに優しい人間はいる訳がない、と否定的に思っていました。

 ですが、そのような僕の心にも変化が生まれてきました。学年が上がるにつれて、長く感じていた礼拝の話も内容が分かるようになったり、文字ばかりで難しく感じていた聖書も自分で読むことができるようになったりすると、だんだんと聖書の教えやイエス様や神様がどのような方なのかが分かるようになってきました。

 神様が天地を創造されたのは、人間を創造して愛するためだということ。自分を裏切ったユダも憎まなかったのは、それだけ人間を愛しておられるからだということ。自分の息子に人間の罪を肩代わりさせたのは、全ての人間を愛しておられるからだということ。

 イエス様と神様がいかに僕たち人間を愛してくださっているかが、心と頭で感じられるようになると、今までの疑問や否定的な思いがだんだんと消えていきました。

 イエス様、神様を信じられるようになった理由がもう一つあります。それは、東京三育小学校の人たちとの関りを通してです。一年生の時のバディの六年生や、ファミリーリーダーの上級生の人たちは、下級生の僕たちに学校のことを優しく丁寧に教えてくださいました。クラスの友達も、初めの頃はお互いを理解していなくて喧嘩をすることもありましたが、僕がイエス様や神様のことが分かっていったように、クラスの友達も聖書の教えに理解を深めると、お互いに助け合ったり、楽しく会話をしたりすることができるようになりました。

 東京三育小学校の人達は、イエス様を模範とした校訓「誰かのために」の教えを実践していて、その人達からイエス様を感じることができたからだと思います。

 僕はまだ神様について知らない事がいっぱいあります。だから、中学校に進学しても、大人になっても、神様がどんな方なのかを知ることを続けていくことで、神様を信じていきたいと思います。

 最後に聖句をお読みします。

ヨハネによる福音書 14章1節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

「『学ぶ力』の土台」

校長 平田 理

 

 

 

 

 真の「学ぶ力」を育てるには一定の時間が必要ですし、学校での学習や活動だけでは強固なものにはなり得ません。本人の努力や才能ばかりか、家族、親族、知人を含めた周辺にいる大人たちが協力的に育てる必要があります。興味を広げ、深め、学び続けるには周囲の環境も大切な要因です。

 先ず、体験的学びの刺激が大切です。現代は技術革新のおかげで、10年前では想像できない速度と効率で情報収集が可能ですし、生成AIの学習速度が飛躍的に向上して、子どもでも瞬く間に完成度の高い作品や文章を仕上げることが可能です。しかし、速度と効率を優先させ試行錯誤が省かれると、問題解決への気づきや創造力、展開力なども削がれ、五感を利用する力まで衰える可能性があります。目、耳、口、鼻、舌、手を駆使する実体験は画面上からの情報の記憶と比べ長く続き、印象深く記憶されると言われますので、大切にしたいです。

 次に読書です。これは学校や図書室だけでは身に着きにくい習慣です。読書をする人がそばにいると、本を好きになったり、読んだりする動機も生まれ易いと言われます。また、年齢に応じた読み聞かせや本に親しむことで、言葉の使い方、適用、漢字や言葉の意味といった知識や情報を得られますし、指でページをめくり、考えを巡らす時間は、記憶の定着にも好影響があるようです。デジタル化で便利な時代ですが、読書を通じての意見交換や思索的な時間を増やしたいですし、読書を勧める最も効果的な助言は「本を読みなさい」ではなく、先ず大人が本を読む姿を見せることかも知れません。

 体験や読書によって得られたものを記録し、再生するために文字や音声を利用しますが、単なる走り書きからも、意見や心情に近い言葉選びを繰り返すことで作文力は磨かれます。作文は、考えを巡らせる時間や習慣が身に着きやすい活動ですから、「学ぶ力の土台」を育てる中で最も時間を必要とする、思考力を養うことにも繋がります。記憶の定着と反芻、再現力には個人差が大きいですが、考えをまとめ、他と比べ、更に練り上げることで、「学ぶ力の土台」が強化され、新しい事柄への適応力を生み出すのではないでしょうか。

 

『思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。』 

マザー・テレサ(1910-1997)

 

 

 

 

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