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校長通信

「愛され、赦され、尊い価値がある」

校長 平田 理

 

 

 

 

 聖書に残されたイエス・キリストの言葉の中で繰り返される3つの大切な教えは、あなたは、「愛されている」、「赦されている」、「尊い価値がある」です。

 人は誰かから愛されるために生まれ、過ちと失敗を繰り返すにもかかわらず赦され、多くの欠点や弱点を抱えるにも関わらず価値があると言うのです。

 しかし、全ての命は尊く、何らかの価値があると頭では理解しているにもかかわらず、時に私利私欲にまみれ、他者を排斥し、差別し、侮蔑し、反目することが多いのです。否定と断絶が社会に蔓延し、家族や親しい関係の中でさえも、疑心暗鬼の眼を向け合っている始末です。

 

 イエス・キリストの大切な3つの教えが、時代や文化を越えて訴え、迫ってくる理由は、私たちの心の奥にある「命の尊厳」に関わる価値だからではないでしょうか。

 ユダヤ人医師としてアウシュビッツ強制収容所を生き延びた、ヴィクトル・E・フランクルは、人は生きるために、3つの価値、「創造する価値」、「体験する価値」、「態度という価値」を創造して生きていると述べました。

 注目したいのは「態度という価値」です。自分自身の観点や視点を変えることができれば、自分ばかりか周囲に居る人、状況でさえ変えることができる、換言すれば、人生は心の持ち方(視点)で、生きる態度が変わると言うのです。死を突きつけられた極限状態では、安易な道徳観や倫理観は吹き飛ばされ、利己的な行動を選択する「態度」が当然かも知れません。

 しかし、この暗黒のような絶望感の中でも、ある人は「自分は必ず誰かを支えるために生かされている」とパンを分け与え、「きっと誰かが自分のために祈り続けてくれている」と他者への感謝と寄り添いを忘れなかった人が居たのです。このような人たちこそが、未来に生きる意味を見出し、小さな希望の光を魂に灯すことができたのです。その「態度」を選び取る自由意志が「生き甲斐」、「生きる価値」となりました。この「態度」を選択する自由意志の土台こそ、あなたは「愛され、赦され、尊い」存在だという、生かされている「命の尊厳」の源ではないでしょうか。

 

聖書は

わたし(神様)の目にあなたは価高く、貴く

 わたしはあなたを愛し

 あなたの身代わりとして人(キリスト)を与え

 国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ書43章4節)

と、ひとり一人の貴い命の価値を示しています。

 

 

 

 

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「積極的な訓練:Positive Discipline」

校長 平田 理

 

 

 

 

 「積極的な訓練」(Positive Discipline ポジティヴ・ディシプリン」は、カナダの臨床心理学者ジョーン・E・デュラント博士(Joan E Durrant, Ph.D)が、国際的子ども支援NGO「Save the Children」と共に、「こどもへの向き合い方」の基本的な考え方を提案したプログラムです。子どもたちに関わる全ての養育者向けに開発した(2007年)内容で、4本の基本的なアプローチが柱です。

①長期的な目標を決めること

②温かさと枠組みを示すこと

③こどもの考え方、感じ方を理解すること

④課題を解決すること

 このプログラムの基本に流れている考えは、養育者が懲罰的な子育てから距離を置くことにあります。しかし、多くの場合、子育ては短期的な目標に縛られて、養育者にも、子どもにもストレスを与えています。

 ご自宅の登校直前の子どもたちにして欲しいことは何でしょうか?時間になったら起きて、ごはん、着替え、歯磨きを手早く終え、持ち物、制服を整え、宿題などの提出物をしっかりと鞄に入れ、笑顔で挨拶をして玄関を出ていく子どもです。しかし、実際は、子どもに「早く○○しなさい」と立て続けに指示を出し、繰り返し確認し、時に大きな声を出して叱責し(表情も)、促しと励ましのつもりで余計な手助けをし、ようやく送り出す。ホッとして見回すと玄関には、あれだけ確認した「忘れ物」の弁当や傘が・・・。ほぼ毎日繰り返される短期目標への適応の確認と監視的な視線や指示を注ぎ続け、懲罰的になることが日常かも知れません。提案にある、温かさや慈しみの視線からは程遠い現実があります。

 そこで大切にしたいことが、長期的な視点で子どもと一緒に考え、合理的に判断する機会を増やし、少しずつ自制心や課題に取組む前向きな態度を身に着けていく活動、これが「積極的な訓練」のアプローチです。

 例えば、「どんなお友達にも優しくする子ども」を長期目標にするのであれば、家庭においても、子どもたちの日毎の状況に大きく左右されるのではなく、大人も優しい声かけや共に考える時間を持って、子ども自らが始めたり、考えたりすることができるように促す助言や寛容な姿勢と忍耐が問われます。意地悪な言動、露骨な表情、時には自分を守る為に嘘(大袈裟な表現)もついてしまう子どもの特性を理解し、大人も似たような弱さがあることを自覚し、謙虚さを忘れず関わるように促されているのです。

 聖書も同様に両親にもひとこと言っておきます。子どもを、いつもうるさくしかりつけて反抗心を起こさせたり、恨みをいだかせたりしてはいけません。かえって、主がお認めになる教育と、愛のこもった助言や忠告によって育てなさい。」(エペソ人への手紙 6章4節 リビングバイブル)と大人の愛ある姿勢を問いただしています。

 

 

 

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「あなたの座る場所は?」

校長 平田 理 

 

 

 

 

 事故で手足3本を失い、障害等級1種1級である山田千紘さんは、義足での歩行時間が長いと疲労が蓄積し、足の凝りや張りから解放するために義足を外したくなるそうです。ですから、交通機関利用の際は、優先席が空いていれば座り、短時間であれば立ち、義足を履き直す場合などは優先席を利用しています。休日で短パン姿であれば義足であることは一目瞭然ですが、仕事の場合はスーツ姿で義足が隠れて身障者のようには見えません。

 ある日、航空関連の職場に勤める山田さんが地下鉄で移動中、正面に座っていた女性から視線を感じつつ、優先席に座っていると、女性が立ち上がって「ここはあなたが座る席じゃない。違う席に移りなさい」と、注意を受けました。戸惑いながらも障害者手帳を見せ「身体障害の1種1級です」と丁寧に説明したところ、女性から電車内に響く大きな声で謝罪されたことがあったそうです。

 優先席に座っていて気になる人に声をかけ、注意した女性の行動が素晴らしく、嬉しかったと、山田さんは述懐します。注意した相手がたまたま障害のある山田さんでしたが、この女性のような勇気と思いやりのある行動によって、優先席を本当に必要とする人が座れる機会が増えるでしょうし、優先席の役割を十分に果たすことになりそうです。山田さんは、優先席利用者への思いやりある「注意」に対して感謝を伝えました。

 

 翻って、人は日常生活の中において気づかないうちに、「優先される」「損しない」立場を探す傾向があるのかも知れません。「優待」「優先」「優秀」人よりも優位に過ごせる場所や立場に価値を見出し、満足感や優越感を得ている場合もあります。自分に相応しくない位置や立場にも関わらず、そこに立ち続け、他者への関わりや問題から距離を保つために、敢えて「優劣」の比較に巻き込まれている可能性もあります。更には、他者の問題に関わることで「不利」になることを避けているのかも知れません。

 

 聖書(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)は『何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。』とイエス・キリストの謙遜の模範を示しています。

 

 山田さんが電車内で体験した(「山田千紘のプラスを数える」)「あなたの座る場所は?」との投げかけに、俯瞰した視点や謙遜な心の在り方を失わないように、ひとり一人が応えたいものです。

 

 

 

 

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「愛されている感じ」

校長 平田 理 

 

 

 

 

「先生は聖書で好きな場所(書や手紙)はどこですか?」

「たくさんあるなぁ」

「僕はヨハネによる福音書が好きなんですよ」

「それはどうしてですか?」

「だって、神様に愛されている感じがするんです。」

 春の祈祷週中で突然交わされた会話です。お昼休みの祈祷会で、たまたま一緒にお祈りをささげた低学年児童のよどみないコメントに大いに驚かされ、感心しました。聖書の学びの大切な核心を見事に捉えていました。更に翌朝、その児童たちによってささげられた特別讃美歌に心を打たれました。

「祈り求めます。憎しみをすてること。お互いに愛し合い、信じあうことを。・・・主よ、慰められるより慰めることを学び、愛されることよりも、愛することを教えたまえ・・・互いに赦し合うこと・・・主と共に生きること。」

 

「好きな聖書の場所」であるヨハネによる福音書には、確かに、神様の愛を示す言葉が数多く示されています。聖書を学んで日の浅い幼い魂に、聖書の言葉が沁み渡っていることを窺い知り、心から感謝しています。

 それにしても「愛されている感じ」はどんな感じなのでしょうか?必要が満たされている、温かい気持ちになる、嬉しさや喜びに溢れる・・・。心の中にある見えない感覚を「確かなもの」として聖書の「言葉」から感じ取っているのでしょう。ヨハネによる福音書15章は「イエスはまことのぶどうの木」のたとえが記されていることで知られています。ぶどうが豊かな実りを得るためには、枝が幹につながっていることが大切で、離れてしまえば枯れて、失われる存在であることを教えています。同様に、神様と人とのつながりが命の喜びに預かることを示しています。

 

「・・・わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章11,12節)

 

 互いに愛し合い、信じ合う関係が、ぶどうの木の幹と枝の関係を通して分かり易く説明され、互いに愛し合うことを通して、神様の愛を感じるように勧められています。子どもたちは、ご家族との関係で、お友達との関係で、「愛されている感じ」を繰り返し学び、実感するのでしょう。

 

 

 

 

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「Accessibility:アクセシビリティ」

校長 平田 理 

 

 

 

 

 久しぶりに日本万博(1970年大阪開催)で建設された「太陽の塔」を眺める機会がありました。懐かしい気持ちと共に「顔」がいくつあったか思い返しました。見ているとわかる2つ、知っているとわかる3つ、更に調べるとわかる4つの顔があります。「太陽の塔」には外から見える3つと、現存しないのですが、内部にある4つ目の「顔」がありました。「見える人」は自分が得られる視界や視点から情報が入力され、外側には「アクセスしやすい」のですが、見えない場所には「死角」が生まれ「アクセスできない」ことがあります。想像力や情報量の差によって3つめ、4つめの顔の存在が増減します。

 

 英語の「Access:アクセス」(意味:接近、通路、入口など)は、近づくことを意味し、「アクセスできる・できない」「アクセスランキング」など様々な場面で利用されています。

 「太陽の塔」の顔を眺めながら、情報格差や利用難易に用いられる「近づきやすさ、利用しやすさ」を意味する言葉「Accessibility」について考えさせられました。ホームページやアプリケーションを利用する際に、操作や入力内容の難易度が低ければ「アクセスしやすい」、施設や建物が見えにくい、入口や駐車場が分かりにくい、使いにくい場合は「アクセスしにくい」ことになります。

 翻って、人間同士のアクセシビリティの難易度はどうでしょうか、他者から「アクセスしにくい」人間になっていないでしょうか。もちろん、笑顔や挨拶、表情は、外見的な印象を発信し、視覚から理解できますからとても大切です。

 一方で「太陽の塔」の4つ目の顔の存在から考えると、自分ばかりか他者の内側にも「顔」が潜んでいること、内面を感じる察知力や想像力も大切なアクセシビリティなのです。個性や特性の違いによって能力や機能に制約や偏りがあっても、人間理解での「死角」は少ないに越したことはありませんし、何より誰からも「アクセスしやすい」人間でありたいものです。

 

「・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上 16章7節 新共同訳)

 

 容姿や身体的な特徴といった外見にばかり目を向けて、判断や評価するのでなく、心の中にある大切な「顔」を見つめる必要を聖書は説きます。心の眼で見る力を求めて、アクセシビリティを磨きたいものです。

 

 

 

 

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