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校長通信

「すばらしい宝物」

校長 平田 理  

 

 

 

 子どもも大人も、この3年間は当たり前のことが当たり前では無いことを学びました。そして、「当たり前」「普通」の反対語は「有り難い」「特別」であることを痛感した日々でもありました。人生において、劇的な出来事や体験も必要ですが、生活の中にある「当たり前」や「普通」が、実は「有り難い」ことで、「感謝」すべきことであることを心に刻みたいものです。お家がある、家族がいる、学校に行ける、教科書やノートがある、友達や先生がいる、電気や水がある、下水やゴミがあふれない・・・。普段の生活では忘れがちな「小さな有り難い」が集まって「普通」や「日常」があることを憶えたいのです。

 

 2022年度は3年ぶりに保護者・ご家族が参観する中で行事や礼拝を行う機会を得ました。多くの皆様の前で学んできた言葉や歌詞を発表する機会は「少し緊張」を伴う大切な体験でしょうし、子どもたちの成長に「小さな自信」を与えたと実感しています。

 

 3学期の学習発表会の2年生の発表では、系列三育小学校の児童と教諭が一緒につくった「すばらしいもの」という讃美歌に、本校2年生児童たちが2,3節を作詞して披露され、ひとり一人を認め合い、仲間を大切にしたい温かい気持ちが伝わりました。

『ああ、ぼくらはちいさくてよわいけど みんなすばらしいものもってるんだ つよいゆうき やさしいこころ こんなにちいさなぼくらだけど かみさまはひとりひとりをみている』更に、『ひとり一人の大切ないのち、耀くこころ、祈りのこころ、イエス様に従う素直なこころ、そして、神様の愛・・・』たくさんの「すばらしい宝物」を頂いていることを歌詞に加えました。

 

 意地悪を言わない勇気、仕返ししない勇気、誰かにあやまる勇気、誰かをゆるす勇気、悲しみや傷みに寄り添うやさしさ、必要に応えるやさしさ・・・「普通」で「当たり前」の生活の中で、忘れてしまいそうな「小さな勇気」と「小さなやさしさ」に気づいて、行うことが、「小さくよわい」子どもたちを「大きくつよく」成長させる糧なのです。子どもたちひとり一人が天から与えられた「すばらしい宝物」に支えられ、耀くこころを育んでいることを感謝します。

 

「・・・何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙 4章6,7節)

 

 

 

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「ARIGATO:感謝」

校長 平田 理 

 

 

 

 2022年度3学期も残すところ僅かとなっています。校内では卒業式に向けたプログラムの準備や歌の練習が続けられています。クラスメイトばかりか、学年を越えたつながりも少しずつ深まったこの季節ですが、間もなく「お別れ」を迎えます。

 

 先日の児童礼拝で「ARIGATO:感謝」の大切さを伝えました。2011年3月に発生した大震災の復旧活動の最中、「トモダチ作戦:Operation TOMODACHI」に参加した在日米軍隊員たちは、物資運搬の任務中に上空から浜辺に瓦礫で描かれた「ARIGATO」のローマ字を発見し、苦しい現実に直面しながら他者への感謝を忘れない被災者の姿勢に、驚きと共に感動を覚えたと記しました。日米関係とりわけ基地問題は多くの課題を抱えていますから、感謝すべきとわかっていても言葉や行動に表すことは中々難しいことです。自分のことで精一杯の苦境にありながら、「ARIGATO」を忘れなかった東北の皆様に大切なことを教えて頂きました。

 

 聖書の中(新約聖書 ルカによる福音書 17章)に、重い皮膚病で苦しんでいた10人が、イエス・キリストから癒され、病とともに世間からの偏見や差別から解放されるお話があります。病人たちは重い病気を癒され歓喜したことでしょう。しかし残念なことに、癒された感謝をキリストに伝えたのは、たった一人でした。イエス・キリストはその人に「癒されたのは10人ではなかったか」と尋ね、「あなたの信仰があなたを救った」と、感謝を忘れなかった人をさらに祝福されました。

 

 日常生活においても、有形無形のたくさんの支えや助けがありますが、多くの場合「当たり前」の中に溶け込んで「感謝」が見えなくなります。親しい間柄や家族ではさらに「ありがとう」を見失っているのかも知れません。言葉にできない感謝が伝わる時もありますが、感謝の思いを込めた「ありがとう」、笑顔、仕草は受け手に伝わるばかりか、心の芯を温めるのではないでしょうか。

 

 三育小学校で出会ったお友達、先生、色々な学びの時間や体験を感謝できる子どもであって欲しいです。私たちはどんな時にも、小さな文句を口にすることも、小さな感謝を口にすることもできます。しかし、どちらをするにしても、それが人生の習慣となり、品性を築いていきます。願わくは「ありがとう」を互いに伝え合う三育小学校でありたいです。

 

「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。」(フィレモンへの手紙  4節)

 

 

 

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「WWJD?:私淑」

校長 平田 理 

 

 

 

 

 3学期が始まりました。寒さが続いていますが、半そで半ズボンで元気に活動する子どもたちです。短い3学期ですが、まとめの学期として子どもたちが大きく成長する時期です。新しい学年・進学に向けて良い準備の期間となるよう寄り添っていきたいと思います。

 

 昨年のサッカーワールドカップ・カタール大会での日本の躍進は世界に衝撃を与え、アジア諸国の活躍とサッカー先進国や伝統国の敗退が衝撃と共に報道されました。多くの若い日本代表選手たちが物怖じすることなく強豪たちと対峙し、時には凌駕する活躍を観ると「W杯初出場」を待ち望んだ世代には隔世の感があり、確かに「新しい時代」を見せて頂きました。

 校庭においても、この活躍を受けてサッカー熱が広がり、子どもたちの歓声が響いています。「俺は三苫選手のマネ」「じゃ、僕は堂安選手」「私は吉田選手」次々とお気に入りの選手の名前を連呼しながら、ボールを蹴っています。見よう見まねでフェイントをかけ、シュートし、ガッツポーズはさながら「ものまね大会」です。サッカー選手への憧れと共に「〇〇選手だったら、きっとこうプレーするに違いない」と、「まね」を繰り返し遊んでいます。

 

 誰もが様々な「お手本」に影響を受けているのではないでしょうか。走り方、蹴り方、投げ方、握り方、道具の使い方、言葉遣いや振る舞いまで、少なからず「だれか」の影響を受けています。身近な家族や出会った友人、先生、時には本や映画が「お手本」として影響を与えるのです。

 

 「What would Jesus do?:WWJD?(イエス様ならどうする?)」というキリスト教では良く知られる英語の慣用表現があります。様々な判断や決断をする場面で自問自答するのです。「模範:モデル」のイエス様だったらどうするのだろう?と自らの考えや思いの基準とするためです。孟子の残した「私淑」も同様の意味です。直接、師や模範からの教えは受けられずとも、秘かに尊敬し学び、その教えや心を獲得していく姿勢です。イエス・キリストを直接知り、模範とできた弟子は少なかったのですが、その弟子たちから教えを受けた多くの人たちがキリストを知り、「キリストに倣う者」(コリントの信徒への手紙一 11章1節)になったことによりキリスト教は世界に伝播されました。

 

 私たちは日毎の大小の判断や決断の延長に生き、歩むのですから、時に立ち止まって、「これで良いのか」「WWJD?」と静かに問い、それぞれの「新しい時代」に向けて、時を積み重ねることが大切ではないでしょうか。

 

 

 

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「本当に必要なもの」

校長 平田 理 

 

 

 

「○○さんが先に言ってきたので言い返しました」「○○くんがズルいことするから頭にきてやってしまいました」・・・子どもたちのトラブルの原因を尋ねると同様の答えや説明が返ってきます。原因は自分には無く先ずは相手に非があるのだとの主張です。よくよく双方の言い分を聴き出してみると、きっかけは相手ばかりではないことが多いです。お友達とのトラブルを減らすことで学校での楽しく、嬉しい時間(幸福度)はかなり改善されるはずです。

 

 例年話題になる「ワールド・ハピネス・レポート2022(世界幸福度ランキング:150カ国以上参加)」で日本の幸福度は第54位でした。2020年第64位からと比較すると幸福度は向上したようですが、先進諸国の中では最低の位置から抜け出せていません。主観的な幸福の感じ方に対して順位付けすることに抵抗はありますが、5年連続で首位のフィンランド、上位を占める北欧諸国との差異は何処にあるのでしょうか。いくつかある調査項目で注目すべきとされた点は、日本は「他者への寛大さ」と「人生評価/主観的満足度」が非常に低いことでした。これだけ「働き方」を自由に選び、自分の主義や主張を「自由に表現できる」環境にありながら幸福度が低い理由は、誰かのために費やす時間や労力が極端に少なく、他者には厳しい姿勢が招いているようです。

 

 米国ハーバード大学には1938年から80年以上続けられている「人間の幸福と健康」についての大変興味深い追跡調査研究があります。この研究を継続している同大学の成人発達研究所4代目所長のロバート・ウォールディンガー教授(臨床精神医学)によれば、「人間に幸福と健康をもたらす本当に必要なこと、それは良好な人間関係に尽きる」のだそうです。一般的に幸福や健康に結びつきそうな家柄、年収、学歴、職業、住環境などは直接的には関係せず、良好な人間関係、信頼できる人間関係の有無が大きく影響するという調査結果です。「明るく幸福な信頼できる友人がいれば、たとえ自分が苦境でも幸福度があがる」とも言えます。子どもばかりか大人も、良好な人間関係を築くことができれば、人生の悩みごとの殆どを解消できるのかも知れません。

 

 聖書は『あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。』(ヨブ記22章21節)と勧めます。神様との良好な関係が人生の幸福度を更に引き上げ、健康と幸福な人生へと導くという示唆です。

 

 クリスマスシーズンです。私たち人間が真に生きるようにと、イエス様は人間としてお生まれになり、十字架にかかってくださいました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネによる福音書14章27節)と語られました。また「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)と言われたイエス様の人生を子どもたちと共に今年も学んでいます。

 

 

 

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「You made my day ちょーうれしい」

校長 平田 理

 

 

 

 担任の代役で時折、教壇に立つ機会があります。子どもたちの表情を眺め、掲示物や作品、文章を楽しみ、課題再提出や未提出者の名簿に目を凝らし、子どもたちの会話に耳を大きくします。「しあわせクラス」と記された箱が目に留まりました。学級の意見箱でしょうか、中身までは確認しませんでしたが、教室の「うごき」や「思い」がみえるような気がしました。うれしかったことや悲しかったこと、誰かへの苦情、意見、お願い、時には誰かの悪口や傷つける内容までが投書されるかも知れません。それらも含め「しあわせクラス」を目指す過程なのでしょう。誰かの良いところを誉めたり、痛みに気づいたりすることで自分以外の人への距離や感情の保ち方を学ぶ機会にもなるでしょう。

 

 車、飛行機、船などの製造業「Honda」の宣伝で「きょうだれかをうれしくできた?」のコピーを観た時に、2学期始業式で提案した「だれかをハッピーにする日を増やす」が重なり嬉しい気持ちになりました。何らかの行いが、声かけが自分以外の人の幸せな気持ちや喜びを創り出せたとしたら、誰もが「ちょっとうれしい」のではないでしょうか。自分の気持ちや想いを誰かに向けることで、「届く」「伝わる」という意味で、宣伝文の印は横を向いているのだそうです。

 

 「You made my day」は、誰かに幸せな気分にしてもらったときに使うフレーズです。やや大げさに「あなたは私の一日を幸せにしてくれた」の意味が込められ、子どもたちの「ちょーうれしい」に当たるでしょうか。私たちは誰かのうれしいを意図的に届けることもできますし、思いがけずに相手が喜びや幸せを感じ取ってくれる時がある一方で、裏腹な思いをさせてしまう弱さを抱えています。

 

 聖書には「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人(神様)に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。」(テモテへの手紙Ⅱ 2章21節)とあります。無用な競争心、嫉妬心、意地悪な気持ちから離れて清められ、貴いことや善い業のために備えられた器、「幸せと喜びを運ぶ器」になることが薦められています。自分が幸せにしてもらうことは嬉しいことですが、同時に、誰かの幸せや喜びを届けることに「うれしいの源」が潜んでいることを教えてくれます。

 皆さんは「きょうだれかをうれしくできた?」

 

 

 

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