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校長通信

「慈しみあふれる」

校長 平田 理

 

 

 

 

 対立や分断、差別や格差が広がる現代社会にあって、未来を担う子どもたちには、どこで過ごすにしても、慈しみ溢れる環境で育って欲しいと心から願っております。本校は、自分の優位を求め、他者を蔑ろにするような思考や価値から距離を置き、一人ひとりが神様から与えられた才能や機会を惜しみなく分かち合う人として成長することを大切に考えています。子どもたちは、自分が愛され、豊かな慈しみと深い憐れみを受けとる経験を通じて、その恵みを肌で感じ取り、心の内にかけがえのない宝として蓄えながら成長することでしょう。しかし、個人の蓄えには限りがありますから、互いに協働することで、その慈しみの輪は大きく広がり、更に多くの人たちに分かち合える力となるはずです。

 

 イエス・キリストが説く「いつくしみ」や「あわれみ」は、大変多くの深い意味が含まれています。聖書の中の「いつくしみ・あわれみ」は、単なる「同情」「優しさ」ではありません。へブル語では「内臓が揺さぶられる愛」(ラハム)「裏切られても見捨てない愛」(ヘセド)などの意味が含まれ、相手の弱さや欠点、失敗に寄り添い、それを引き受け、回復へと導く覚悟さえ伴う「いつくしみ」と「あわれみ」です。
 「いつくしみ深い」イエスさまが勧めるのは、「心の貧しさ」です。「貧しさ」とは、「自分の心に足りないものを知っている」ことです。誰かの痛みに気がつく力、競争や比較で切り捨てない思いやり、自分も助けや慰めが必要だ、ということに気づいて欲しいからです。

 誰かに共感できる「心の柔らかさ」を備えることで、「正しさ」「ルール」「評価」などの正論をかざして相手を追い詰めるのでは無く、「間違い」や「弱さ」に苦しんでいる人を排除しない、むしろ、手を差し伸べる「憐れみ」を抱き、関係を回復させる努力ができます。

 

 イエスさまは常に「小さなもの」に眼を向け、「いつくしみ・あわれみ」を注ぐ姿勢を示されます。同様に「いつくしみ豊かな子ども」とは、大きさ、強さではなく、「弱さに身を寄せる勇気を持つ子ども」なのです。


 子どもたちにとって、失敗を恐れずに努力と挑戦を繰り返し練習できる場こそが学校です。他者への中傷誹謗がはびこる社会にあっても、本校は「あわれみに富み、いつくしみ豊かな人」を送り出す学校であることを目指し、教職員一同、力を尽くしてまいります。

 

 

 

 

 

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「「JOY to the World」新しい歌を歌う」

校長 平田 理

 

 

 

 「Joy to the World」(邦題:もろびとこぞりて)。この有名なクリスマ讃美歌には、イエス・キリストの誕生であるクリスマスだけでなく、イエス様が再びお越しになる(再臨)というテーマも含めた、「救い」と「希望」のメッセージが強く込められています。
 歌詞の作者はイギリスのアイザック・ワッツ牧師 (Isaac Watts, 1674-1748) です。18世紀初頭、イギリスでは讃美歌は聖書の詩篇を古い言葉のまま歌うことが主流でした。しかし、ワッツ牧師は、「礼拝の歌はもっと感情豊かで、人々の心に響くものであるべきだ」と考えました。彼は、聖書の詩篇98篇と創世記3章の言葉を土台にしつつ、当時のキリスト教の教えや信仰を反映させた、新しいスタイルの讃美歌を作り始めました。これが「Joy to the World」の歌詞の土台です。
 後にこの賛美歌を編曲したのは、アメリカの音楽家・教育者であるローウェル・メイソン (Lowell Mason, 1792-1872) です。メイソンは、ワッツ牧師と同様に、より親しみやすい讃美歌を人々に届けるため、当時アメリカでも有名になっていたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオラトリオ(聖譚曲)作品から着想を得て編曲しました。例えば、「もろびとこぞりて」のメロディーは、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』 (Messiah, 1741年)の合唱曲「And with His stripes we are healed(彼の打たれた傷によって、私たちは癒やされた)」の冒頭と、非常によく似ています。これは、メイソンが「クラシック音楽の荘厳さ」や「良質な音楽」を多くの人々にも賛美してほしいという教育的な願いから、意図的に取り入れたと言われています。ところが、ワッツ牧師の英語詞の第3節は、日本語の歌詞には一般的に含まれません。

 

「もはや罪も悲しみも無く、地には苦しみのとげも生えない。」
(No more let sins and sorrows grow, Nor thorns infest the ground;)
「不幸が満ちている限り、主は祝福を満たすために来られる。」
(He comes to make His blessings flow Far as the curse is found.)

 

 この歌詞は、世界から苦しみを取り除くという壮大な救いの計画と、人々に永遠の希望をもたらす、という神学的に深い内容を含んでいます。
 英語詞が誕生のお祝いだけではなく、救いと希望を現わす時とするのに対し、日本語での歌詞が「祝い」と「喜び」に焦点を当てているため、日本語では省略されたようです。
 「もろびとこぞりて」。人々の信仰心を高め、「新しい歌(讃美)」を献げたいと願った、一人の牧師の情熱の結晶が、お祝いの歌詞「主は来ませり(the Lord is come)」と共に、時代を超えて親しまれている土台には、救いの喜びとイエス様と再びお会いする希望を伝える「新しい歌」が含まれているからだと感じます。

 

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。琴に合わせてほめ歌え、琴に合わせ、楽の音に合わせて。」(詩編98編4,5節)

 

 

 

 

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「ちゃぶだい:境(へだて)を取り払う」

校長 平田 理

 

 

 

 今秋は立て続けに国際的な首脳会談が開催され、多くの報道でその場面が映し出されました。繰り返し視聴していると、ほぼすべての会談が対面で向き合う形で、長い四角いテーブルを挟んで双方が対峙し、議論や討議を行っていました。国際会議としては当たり前の光景が、世界中で紛争と対立が増えている時代だからでしょうか、人と人の「へだて(境)」を象徴しているように感じられました。

 

 昭和時代の家庭の象徴的な家具のひとつ「ちゃぶだい」を皆さまご存知でしょう。家族の部屋が個別ではなかった時代は家族の集まる場所がリビングであり、寝室でもありましたので折り畳みの脚で片付けやすい家具「ちゃぶだい」は重宝でした。しかし伝統的な家具である「ちゃぶだい」は、椅子の文化が浸透するにつれ、姿を消していきました。ところが、レトロやヴィンテージを見直す若い世代に、距離や境をつけない家具として、単なる古い家具以上の価値で見直されています。「ちゃぶだい」は基本的に円形が多く、座る人たちの間に「上座・下座」といった明確な序列や境を作らないからです。四角いテーブルのように角(かど)がないため、向かい合うのではなく、皆が中心を共有する形になり、自然と人や心の距離を縮める効果があるからかも知れません。

 

 「境をつけない」という考え方は、国際的な場での「円卓会議」の効能にも通じます。

 円卓会議は参加者全員が平等な立場で議論を進めることを前提としており、対立や優劣ではなく、相互理解と協調を促します。この形は、参加者が本音で話しやすくなり、お互いの意見を尊重し合うことで、より建設的で平和的な結論に到達する手助けとなるとも考えられています。さらに「ちゃぶだい」や「円卓」が持つ「平等性」と「協調性」を促す力は、「平和を創り出す考え方」と深く結びつくのではないでしょうか。物理的な「境(へだて)」を取り払うことで、相手との間に心理的にも壁を作らず、一人ひとりが大切にされていると感じられる環境が生まれます。こうした環境で対話し、お互いの多様性を認め合うことは、争いのない平和な関係や互恵社会を築くための第一歩となるはずです。


 単に家具や形式だけではなく、「平等な立場で向き合う」「心の距離を縮める」努力と姿勢は、個人でも国家間でも、そして、家庭においても平和な関係性を築く上で大切な土台です。

 

 

 

 

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「プレイフル・ラーニング 学びの楽しみ」

 校長 平田 理

 

 

 

 

 幼稚園や保育園の中では経験的に実施されていた学び方「プレイフル・ラーニング」(Playful Learning)が、初等ばかりか教育界全体の中でも再注目されています。自分が周りの世界とどのように関われば楽しくなるか、どのようにすれば周りの人と一緒に、「遊びながら」楽しく学べるかという考え方、振る舞い方(学ぶ姿勢)を指しています。ワクワク・ドキドキ感のあること、好きなことをやっている時の楽しさや嬉しさの中に「学び」が溢れているという考え方でもあります。遊びと勉強という一見、対局にあるような活動を融合させることで、既存の学びの場が新しく躍動的に変化するのです。

 一般的な授業は教室内で行われる知識伝達型ですが、現在、多くの学校でも取り入れられている協働学習や探求活動などは、他者との対話や討議から学習者自身に気づかせる学びです。時には答えに辿り着けない場合や一つにまとまらない場合もあるでしょう。しかし、自分たちで問いを立てたり、試行錯誤したりする中で受ける失敗や達成感などを分かち合うことで記憶や理解が深まるはずです。そこにはある種の「遊び感覚」がうまれ、学ぶことが苦痛や退屈から離れた活動として学び手に広がっていくのかも知れません。

 

 心理学者 キャロル・ドウェック博士(Carol Susan Dweck スタンフォード大学)が私たちの行動に大きく影響する2つの心の持ち方(Mindset)を説明しています。1つはFixed Mindset(自分に限界をおく姿勢)で「できるかな?」と否定的な発想を伴うもの、もう1つはGrowth Mindset(自分の力を信じようとする姿勢)で「どうしたらできるかな?」と自分の能力を引き出そうとする能動的な発想です。課題や困難に直面した際にどちらを選択するかによって挑戦的になれるかが決まるという考え方です。2つのMindsetは何れも自分に焦点が向いていますが、これに加えて上田信行教授(同志社女子大)は、「驚かせたい、喜んでほしい」といった他者への想いが、学びの推進力「ワクワク・ドキドキ感」を生み出すので、Playful Mindset(どうしたらあなたをよろこばせられる?)を提唱しています。

 

「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる。」  箴言3章13⁻14節

 

 子どもたちの学びの場である学校を、誰かに勉強させられる場所から、自分たちで問いを立て、答えや理解を探し出し、みんなで勉強を楽しんだり、味わったりする場所になればと願っています。

 

 

 

 

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「身近にある大切な光」

校長 平田 理

 

 

 

 

 夏休みの課題の一つである自由研究は、さまざまなテーマにじっくりと取り組む良い機会です。 

 この夏は画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853–1890)をテーマに美術館を訪問したので、その学びを紹介します。

 彼の作品は、光あふれる『ひまわり』や、激しいタッチの『星月夜』など、多くの人に知られています。しかし、作品の背景には、彼の苦悩に満ちた人生と深い信仰があったことはあまり知られていません。

 ゴッホは、オランダの牧師家庭に生まれ、幼い頃から聖書に親しみ、人々を救いたいと願う少年でした。しかし、内向的な性格ゆえに周囲との関係に悩み、信仰も追い詰めるような「絶対的」で「自己犠牲を強いる」ものになっていったようです。

 青年期に失恋した際にも信仰に救いを求め、結果的に父親と同じく伝道者の道を志しました。ベルギーの炭鉱地では、貧しい鉱夫たちに献身的に尽くす生活を送りますが、その極端な生活や行動は教会にも理解されず、伝道者の職を解かれてしまいます。この挫折は彼を深く傷つけましたが、同時に「貧しい人々の姿を描くこと」を人生の目的とするきっかけとなったのです。こうして、彼は27歳で画家としての道を歩み始めました。

 初期の作品である『ジャガイモを食べる人々』には、貧しい農民の厳しい生活と、彼らの持つ神様への素朴な信仰が表現されています。これは、牧師の息子として育ったゴッホの信仰心と、農民たちを見つめる温かい眼差しがあったからこそでしょう。

 その後、パリで印象派や浮世絵と出会い、彼の画風は一変します。『ひまわり』の鮮やかな黄色や青は、単なる美しい色彩では無く、暗闇のような人生でも必死に光を求める、彼の「祈りの表現」だったのかもしれません。

 ゴッホは

「疲れた者、重荷を負う者だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう。」

(マタイによる福音書11章28節)

との言葉を拠り所としましたが、心の不安定さは彼を苦しめ続け、晩年の『星月夜』は、渦巻く夜空と糸杉が、心中の苦しみや激しい葛藤を描いたかのようです。

「絵を描くこと、それは光を追い求めることだ。」「作品を通して人々に慰めを与えたい。」

 ゴッホにとって絵を描くことは、神様を語り、人を愛し、人の苦しみに寄り添うための「もう一つの伝道方法」だったのでしょう。ゴッホは37歳という短い生涯の中で2000点余の作品を残しましたが、生前には名声を得られませんでした。しかし、作品は、信仰に根ざした人間への深い愛と、絶望の中でも光を求め続けた魂の証として、今もなお私たちに感動を与え続けています。

 

 

 

 

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