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校長通信

「『体験学習』って?」

 校長 平田 理

 

 

 

 

 昼食時間に思いがけず「カラスノエンドウ」の種が跳ねて、ちいさな騒動が起こったそうです。だれかが教室に青かった鞘をもってきて、時間が過ぎ、黒く乾燥した鞘が「パチッ」と弾け、種が跳ね出したからです。

 子どもたちは何を学んだのでしょうか?乾燥すると黒く変色することから「カラス」を連想させる名前がついたことでしょうか?学校生活の中でおきる様々な出来事の中から得られる体験は、いわゆる一斉授業で目指す、同じような結果や回答に行き着くものではありません。むしろ、千差万別の反応や感想に行き着いて良いのです。自然界の不思議を受止め、考え、仕組みに興味を持って調べて欲しいと、先回りして考え、教訓を求めるのは大人の考え(誘導と理想)です。お友達の驚いた表情を楽しんだ、先生の説明が面白かった、お弁当に入っちゃったかどうかが大問題!、落ちた種を拾いたい、どこかに植えてみたい、食べてみたい!じつに多彩な反応です。ここに体験的学びや探求的な学びにつながる「種」が潜んでいます。休み時間の遊びや口喧嘩でさえも体験的に多くのことを感じ、学ぶのです。みんなで遊ぶにはルールを守ること、道具は順番に貸し合った方が楽しいこと、下級生や上手にできない人も混じって遊ぶと楽しいこと、今日は仲間に入れなかったから悲しかったこと、ちょっと意地悪なことを言って後悔したこと、勇気を出して謝ったら赦してもらえたこと・・・。

 

 日本を含む多くのOECD(経済協力開発機構)加盟国が、こぞって目指している子どもたちに身につけさせたいキー・コンピテンシー(競争的優位性)の鍵となる概念は、「Agency:エージェンシー」です。すなわち自らが変化を恐れず、目標を定め、振り返り、責任を担う、自律的に生きる力の育成です。不安定かつ不確実、複雑で曖昧な社会を生きるためには、思考力、判断力、表現力などと共に、心の在り方、学びに向かう力などが必要不可欠だからです。費用と時間をかけて「体験学習」を数多く体験しても、自らの心の在り様を見つめ、他者の考えや感情を分かち合う機会が失われているとすれば、残念な時間の積み重ねに成りかねません。

 

 「鞘がパチッとはじけた」事件から、この先生は自然界が教えてくれる「いのちの法則」を聖書の言葉を用いて子どもたちに伝えました。与えられた命を他のために使うことで、新しい命を生み、助ける法則です。他者のために存在し、与えることを通して生きているという、極めて実践的な「いのちの大法則」とも言えます。

 この「小さな体験」から子どもたちは、果たしてどんなことを感じ、学び取っていくのでしょうか。

 

 

 

 

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「心から喜びを感じるこども」

校長 平田 理

 

 

 

「心から喜びを感じるこども」

~喜びを感じ、喜びを運ぶこども~

~Rejoicing  Every  Day~

 

 人はなぜ喜ぶのでしょうか?人は脳内で神経伝達物質が分泌されることで快感や満足感を得て、前向きな感情を生み出すように創られています。また、目標を達成したり、欲しかったものが得られたりすると喜びや幸福感に満たされます。期待や希望、安心感がある時にも喜びがありますし、家族や友人、他者からの称賛や感謝など、社会的なつながりからも喜びは生まれます。

 ですから、喜びを感じる能力は、感謝することに気づいたり、他者とのつながりを深めたり、広げたりすることで養われ、高められ、育てられる力でもあります。

 

 三育小学校では、幼い心の中に、喜びを感じる力を豊かに育てたいと願っています。得意なことや苦手なことも含めてお互いを理解し、仲間と助け合ったり、笑い合ったりすることで喜びは大きくなります。できないことを嘆くのではなく、できたことや成し遂げたことを喜び、小さな成功を積み上げることで、自分や他者を認める力を育てます。与えられている五感を働かせて、美しいものや素晴らしいものに触れ、自然や本物を感じる体験的な学びの喜びは、物事の本質を探り出す力を養うのです。更には自分の喜びばかりか、誰かの幸せのために汗を流す時間は新しい発想や視点に気づかせ、新たな喜びや創造力を生み出すことでしょう。

 

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。」(フィリピの信徒への手紙4章4,5節)

 

 聖書が繰り返し説く喜びは、一時的な感情だけではなく、深い満足感と平安を伴う喜びです。その深い喜びによって、たとえ困難や試練、挫折や絶望に出会っても、将来での成長や希望を信じ、新たなる喜びと感謝を見いだすことなのです。本当の喜びを心に宿すことで、善意からの行いが生まれ、行いを持続する習慣になり、「いつも喜んでいる人」に変えられるのです。更には、感じた喜びを誰かに広げ、運び、届ける(Rejoicing Every Day)人に成長して欲しいと願っています。一人の喜びが広がってこそ、「広い心」が多くの皆様に知られることになるからです。

 

 

 

 

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「感謝を広げる」

校長 平田 理

 

 

 

 

 「感恩、知恩、報恩」の概念は東アジア諸国に伝統的に大切にされてきた価値観であり、民族を超えた行動規範の土台とも言えます。聖書が繰り返し説く「感謝」は、神様から受けた恵みや憐み、他者からの厚意に「ありがたい」との気持ちを抱き、その恩恵を認知し、自分にできる事柄から少しずつお返ししていく原則です。

 聖書が諭す「感恩」は与えられた恵みに感謝して生きることです。

すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」  (テサロニケの信徒への手紙一 5章18節)

「主に感謝せよ。主はまことに慈しみ深い。その恵みはとこしえまで。」  (詩編107編1節)

 時に私たちは他者からの思いや願いに気づかずに過ごしていることがあります。人々からの助けや恵み、善意に支えられていることに、自ら気づいて感謝の心を抱くことを大切に生きたいものです。

 「知恩」は神様から無条件にいただいている愛を知り、自分の周りにいる他者からの愛を知ることの重要性を意味しています。わかっている、気づいているようで、実は「当たりまえ」になってしまう、日常の風景の一つになって通り過ぎてしまうような「愛」を忘れてはならないということです。目には見えませんが、確かに存在する家族愛、友愛、隣人愛を意識して、感謝することを忘れないように心がけたいものです。

「見よ、父がそれほどの愛を私たちに与えてくださるかを。」  (ヨハネの手紙一 3章1節)

「あなたの神、主を忘れてはならない。」  (申命記 8章11節)

 感謝すべきことや与えられている愛や憐みに気づき、生活できるのでしたら、やはり、そのいただいたことへの応答が必要でしょう。実際に、感謝を行動に移し、神様からの恩恵に対して善をもって報いること、「報恩」は聖書が繰り返し薦める実践的な教えです。それは自分への恵みの対価としての「お返し」では無く、感謝と喜びを土台にした愛と奉仕の表現なのです。

「すべての人に対して良い行いをする機会を持ちなさい。」

(ガラテヤの信徒への手紙 6章10節)

「あなたがたが人々にしてほしいと望むとおりに、人々にもそのようにしなさい。」

(ルカによる福音書 6章31節)

 「感謝」はこの感恩、知恩、報恩が連続することによって、自分の心の中ばかりか、周囲の人々にも広がっていくことでしょう。受け容れ難い困難、不幸や不運に見舞われたとしても、感謝や恩恵を忘れることなく「ありがとう」や「笑顔」を絶やさずに過ごすことが出来れば、希望と将来を計画される神様が、必ずや「光の方向」へ導いてくださいます。

 

 

 

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「『学ぶ力』の土台」

校長 平田 理

 

 

 

 

 真の「学ぶ力」を育てるには一定の時間が必要ですし、学校での学習や活動だけでは強固なものにはなり得ません。本人の努力や才能ばかりか、家族、親族、知人を含めた周辺にいる大人たちが協力的に育てる必要があります。興味を広げ、深め、学び続けるには周囲の環境も大切な要因です。

 先ず、体験的学びの刺激が大切です。現代は技術革新のおかげで、10年前では想像できない速度と効率で情報収集が可能ですし、生成AIの学習速度が飛躍的に向上して、子どもでも瞬く間に完成度の高い作品や文章を仕上げることが可能です。しかし、速度と効率を優先させ試行錯誤が省かれると、問題解決への気づきや創造力、展開力なども削がれ、五感を利用する力まで衰える可能性があります。目、耳、口、鼻、舌、手を駆使する実体験は画面上からの情報の記憶と比べ長く続き、印象深く記憶されると言われますので、大切にしたいです。

 次に読書です。これは学校や図書室だけでは身に着きにくい習慣です。読書をする人がそばにいると、本を好きになったり、読んだりする動機も生まれ易いと言われます。また、年齢に応じた読み聞かせや本に親しむことで、言葉の使い方、適用、漢字や言葉の意味といった知識や情報を得られますし、指でページをめくり、考えを巡らす時間は、記憶の定着にも好影響があるようです。デジタル化で便利な時代ですが、読書を通じての意見交換や思索的な時間を増やしたいですし、読書を勧める最も効果的な助言は「本を読みなさい」ではなく、先ず大人が本を読む姿を見せることかも知れません。

 体験や読書によって得られたものを記録し、再生するために文字や音声を利用しますが、単なる走り書きからも、意見や心情に近い言葉選びを繰り返すことで作文力は磨かれます。作文は、考えを巡らせる時間や習慣が身に着きやすい活動ですから、「学ぶ力の土台」を育てる中で最も時間を必要とする、思考力を養うことにも繋がります。記憶の定着と反芻、再現力には個人差が大きいですが、考えをまとめ、他と比べ、更に練り上げることで、「学ぶ力の土台」が強化され、新しい事柄への適応力を生み出すのではないでしょうか。

 

『思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。』 

マザー・テレサ(1910-1997)

 

 

 

 

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「本当のハピネス」

校長 平田 理

 

 

 

 2012年以来、国連から発表されている「世界幸福報告書(World Happiness Report)」によれば、北欧諸国の人々の高い幸福度と比較すると、アジア圏、日本の幸福度は残念ながら低調との報告が「例年のように」続いています。国々の置かれている様々な局面や状況を考慮せず、幸福度を単純に比較することには無理がありますが、幸せだと感じる人々が多いことは歓迎すべきことでしょう。より良い人生、より幸せな時間を模索することは人生の充実度を引上げ、人生をより豊かなものへと導いてくれるはずです。

 

 人が幸せだ、満足だ、良い状態(ウェルビーイング)と感じるためには2つの側面が満たされる必要があると言われます。一つは、個人的な満足感、快楽感によるヘドニック・ウェルビーイング(Hedonic well-being)、そして、より社会的な達成感や充足感から得られるユーダイモニック・ウェルビーイング(Eudaimonic well-being)です。心身が健やかな状態で、社会の一員としての役割を果たし、満足感が得られるような良い状態(ウェルビーイング)で生きていければ、日常的に「幸せ」「楽しみ」を感じやすいことでしょう。しかし、多くの人は個人的感覚としての「今ここHappy」は比較的容易に短期間で感じられるのですが、ユーダイモニックな達成感を感じる「意義や意味ありHappy」には時間を要する場合が多く、なかなか感じにくい複雑な幸福感なのかも知れません。

 

 聖書の中でキリストが繰り返し説く「喜び」「幸い」は、外側から入ってくる心地良いことや嬉しいことに対する一時的な「反応」では無く、もう少し深いところにある「確信」「信念」から湧き上がる感情です。人生には耐えがたい患難辛苦に苛まれる時がありますが、そのような中にあっても、心の土台から支え、前に進む勇気を生み出してくれる根源的な「喜び」「幸い」が勧められているのです。

 

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙一 1章8-9節)

 

 今日はお天気が良くて幸せだ、人から褒めてられて嬉しい、も大切な幸福感ですし、どんな人にも必要な「喜び」です。しかし、正負に関わらず全ての感情を受け止め、慰め、癒し、励まし、力を与えられるキリストへの「信頼」「信仰」が、人に「喜びを満ちあふれ」させ、「魂の救い:本当のハピネス」をもたらすのです。

 

 

 

 

 

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