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校長通信

「職分:すくぶん」

校長 平田 理

 

 

 

 

 「すくぶん」という沖縄のことば(しまくとぅば)があります。「職分:すくぶん」は、使命や責任を意味する言葉ですが、いつの時代も、困難な状況にあっても責務に忠実な人がいて、その仕事や領域の礎を築いて来られたことがわかります。

 

 「沖縄のナイチンゲール」と称された、眞玉橋ノブ(まだんばしノブ:1918⁻2004)さんの戦中、戦後の働きを伝える絵本「すくぶん」を読みました。第二次大戦の激戦下で、沖縄のひめゆり学徒隊の女学生たちを率いて南風原壕内の病院を切り盛りした看護師です。戦後の沖縄は、戦争でたくさんの医師や看護師を失ったため、看護や医療をゼロから立て直す必要があり、奇跡的に命を取り留めた眞玉橋さんたちは、沖縄県下の看護教育や病院の医療活動再開のために力を尽くしました。とりわけ、東西1000㎞を超える離島の保健医療には多くの人材派遣が必要でしたから、米国政府や日本政府への派遣要請や法改正のために奔走され、多くの人々の命が救われました。

 

 1985年5月、看護師に与えられる世界最高の栄誉賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」が沖縄出身者では初めて眞玉橋ノブさんに贈られ、沖縄の看護や保健、医療の歴史に光を加えました。

 

 4月から沖縄の平和学習を積み上げて修学旅行に参加した6年生は、戦争の爪痕が深く残る現地での見聞を通じて何を感じ、何を心に留めてこれからの人生を歩んでいくのでしょうか。終戦から79年の歳月が流れましたが、「戦後」とは言い切れない、「平和」で平穏な日常が戻ってきたとは言い難い現状を忘れてはなりませんし、知らないふりはできません。夫々が人生の歩みを進める中で、置かれた状況の中で最善や最適を考え続けて、自分が担うことができる平和を為し続ける生き方、「すくぶん」を目指して欲しいものです。

 

 「Vocation:ヴォケーション」は一般的には職業を意味する英語ですが、「(神様からの)声:voc」+「にする:ate」「こと:ion」という語の構成から「神様から告げられたこと」という意味もあり、しばしば「召命」とも訳されることが多い言葉です。将来、どんな仕事に就くとしても、それが神様から与えられた「職業:天職」であり、ひとり一人が神様からの「召命」に応えて、与えられた人生や時間を用いる「使命」に生きることが大切なのです。人は誰でも、生まれた時から役割や使命を与えられています。あなたの「すくぶん」はなんですか?

 

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(コリントの信徒への手紙一15章58節)

 

 

 

 

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「あなたの提案」

校長 平田 理

 

 

 

 昨今、どの段階の入学試験でも、過程や答えを覚えて容易に解答にたどり着くような問題ではなく、解答らしい解答の出ない問題や課題に向き合い、自らの価値観と判断力で解決の糸口を見つけ、解決策を導き出すような問題が増えています。例えば、近年耳にすることが増えた「オーバーツーリズムの問題」でも「あなたが提案する観光地の局所的な混雑の解決策は?」と、大人でも中々妙案が浮かばない問題への「あなたの提案」が求められます。

 

 ある会社で二人の社員が働いていました。それぞれ担当の役割と責任を果たしていましたが、ある時、A社員はB社員と給与に大きな差があると知ります。それもB社員は自分のおよそ3倍のようでした。

 釈然としない気持ちの中、海外の大きなプラント建設現場への資材運搬業務がA社員に任されました。A社員は挽回の機会を得た気持ちで、上司からの指示を丁寧にこなし、責任を果たしました。しかし、依頼した海運会社の船舶故障で輸送が大きく遅れ、場合によってはキャンセルになる事態です。

「どうしましょうか?」

『別会社はつかえないのか?』

「急な対応で無理では?」

『別のルートか、割高でも別会社はないのか?』

「予算を越えてしまうのでは?」

上司は『わかった。』

 上司はB社員にも同様の依頼をしました。

 B社員は、「少し調べましたが、同質の資材を運搬している別会社がありましたので、少し割高でも良いので緊急対応してもらえないか交渉したところ、配送に余裕があるので担当できるとのことでした。資材運搬に遅れが生じると建設工程も遅れ、諸々負担が大きいので、既に発注済みです。」(原作:ポーランド寓話「2ズウォッテイのモイッシュ」)

 A社員は上司の指示に丁寧に答えましたが、業務の目的を理解した判断をせず、事後の段取りや他の影響を想像できず、提案もしませんでした。更に柔軟な対応や粘り強い交渉にも動けなかったのです。

 給与の差は責任(仕事)への向き合い方でした。与えられた課題や責任への能動的な答え:「あなた自身の選びや考え」が問われる時代です。

 

 聖書には主人から預かった財産(タラントン)を、期待に応えて増やした人には更に多くのものが与えられ、失敗を恐れて土に埋もれさせた人が財産を取り上げられる例え話があります。(マタイ25:14~29)

 この例え話で奨励されることは、失敗を恐れる人生ではなく、粘り強く失敗や心配を乗り越える「選び」なのです。神様から託された財産を人と社会に喜ばれるように用い、与えられた恵みに感謝する「あなたの提案」が必要なのです。

 

 

 

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「助けてくれる?に応える」

校長 平田 理

 

 

 

 夏休みに入りました。子どもたちが心身ともに健康に安全に過ごし、夏休みにしかできない体験や家族との時間を神様が豊かに祝福してくださり、2学期に向けてさらに神様が成長させてくださることをお祈りしています。

 

 誰かに助けてもらったことを忘れてしまう、反対に、助けを求められて、助けたことを忘れてしまうことも多いのが私たちの日常です。極端な例ですが、「荷物を持ってくれる?」は頼みやすく、助けやすいことですが、「心の重荷をもってくれる?」とは、簡単には頼めませんし、気楽に助けられないことです。助けたことの大小によっても記憶や印象の深さは変わりますし、本当に助かったと感じた出来事には大小の差は無く、忘れ難いのではないでしょうか。

 

「受援力」と「授援力」(共に「じゅえんりょく」)聴き慣れない言葉ですが、子育てや家庭教育において利用される言葉です。隣近所の互助の関係が薄くなった現代社会では、「助けてくれる?」を気兼ねなく発することができる人間関係や仕組み、子育て環境が必要ですし、だれかの「たすけて!」に迅速に、適切に寄り添い、手助けできる人や組織が求められているからでしょう。

 

「目をあわせない」「疎遠」な社会の中にあっても、私たちはたくさんの助けが必要な時を過ごしていますし、助けてあげたり、もらったりしながら生活しています。ですから「じゅえんりょく」は、「助ける」「助けられる」の関係性において、誰もが備えておきたい「態度」「姿勢」ではないでしょうか。

 

 一方で「助けてくれる?」と自分には助けが必要だと感じ、助けを求める時こそ、実は誰かの助けや必要に気づき、手助けに努めることが大切です。それは、互いの必要を満たす関係性を築くための土台になるからです。

 更に「助ける」にしても「助けられる」にしても、その機会は「あなただけ」に神様が与えて下さっている「特別な機会」だと捉えることも大切です。

 聖書(箴言11章25節)は、

「気前の良い魂はふくよかにされ、水を飲ませる者は彼自身もまた潤されるであろう。」

と、私たちの本当の喜びや最大の幸福は、隣人に自分を与えることでもたらされることを教えています。

「・・・めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」

(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)

 

「助けてくれる?」と誰かに自分自身をひらき、誰かの「助けてくれる?」に対して、与えられた特別な機会だと、応えられる子どもたちを増やしたいものです。

 

 

 

 

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「Yes, I know」

校長 平田 理

 

 

 

 英語科の授業を見学していると、様々な光景を観察し考えさせられる場面に遭遇します。母語ではない言葉を習得することの楽しさと共に難しさ、文化や習慣の違いを少しずつ理解していくことも言語学習には必要な「学び」であることがわかります。映画などの字幕を翻訳される方の訳し方、同時通訳の訳し方、国際会議などでの訳し方にはご苦労が多いのだろうと推察されます。可能な限り正確に、意図を汲んで、適切な語句を選択しつつ、翻訳する必要がありますから、単純な言葉でも「翻訳力」が試されるのではないでしょうか。


 「Yes, I know.」はどのように訳されるでしょうか?中学生であれば「わたしは知っています。」を即答できるでしょう。確かに教科書の中ではそれが「正解」かも知れませんが、映画や小説の翻訳、日常会話の通訳では中々簡単に訳すことができないことがあります。主語「I」は私、ボク、オレ、おら、おいら、せっしゃ、わし、うち、てまえ・・・主体を表現する言葉に違いがあり、年齢や性別、時代や階層、前後の会話によって「主体」の訳し方が変わり、その訳された「言葉」によってイメージさえ異なってしまいそうです。更に日本語では主語を省略して会話が進む場合があるので「わかってる」「あぁ」だけでも翻訳が成立します。


 学校や教室内での子どもたちの発言の中にも「翻訳」が必要な場合があります。言語表現の上では共通理解できるのですが、本人の心情と文字や言葉との落差があったり、表面的な意味だけで伝えられたりしている場合もあります。「おれはわかっているぜ!!」の言葉とは裏腹に「理解できない怖さ」への強がりである場合もありますし、「わかった気がする」場合もあります。心を動かして聴いていると、言葉の意味に隠されている本意や子どもたちの心情が透けて見えることもあります。聖書の中に「主の言葉を聞け」と訳されている言葉があります。英語では「give ear to the word of the Lord」で、「give ear to~:耳を傾ける」です。心を尽くして耳を傾けるとは、「耳を与える」聴き方なのかもしれません。神様は私たちの将来や希望について「Yes, I know: よく心に留めて」おられるのです。


「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

                                      (エレミヤ書 29章11節)

 

 

 

 

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「共励 たがいにはげます」

 校長 平田 理

 

 

 

 5月に入り、恒例の運動会に向けて様々な練習が始まり、夫々の学年毎に、全体でも熱心に取り組んでいます。特に学年種目では互いに励まし合い、声をかけ合って練習しています。厳しく、否定的な言葉が飛び交うこともありますが、「大丈夫!大丈夫!」「それでいいよ」「うまいうまい」「もっとできるよ」と励ます言葉が多く聞かれ、和やかな空気が流れています。子どもたちに手を振りながら、遠目に眺めて楽しんでいます。

 

 「縁上回:えんじょうかい」耳慣れないこの言葉は脳内の領域を示す名称で、頭頂葉と側頭葉のつながるところにあります。頭頂葉の働きは膨大ですが、「ものを知り、ものに働きかける、他者を知り、やりとりする、自己を知り、未来の行動や計画に生かす」働きを司っているそうです。更に興味深いことに、この領域には、誰かに共感を示さずに自己中心的になるとその是正を促す機能までも、「生来的に備えられている」というのです。

 

 「他者を知り、向き合う力、他者の立場を理解しようする力」、いわゆる「共感力」は、家族とのやりとりや集団生活での経験によって学ぶ、社会心理的な力ですが、脳神経に備えられている機能を刺激し、呼び覚ます力とも言えそうです。

 また脳内では、誰かが痛みを感じている様子を観ていると、自分のことのように痛みを感じる、「情動伝染」と呼ばれる現象が起こることが知られています。最近では東京大学定量生命科学研究所の奥山輝大准教授らの研究グループ(英国科学誌Nature Communications 2023)によって、「自分と他者の感情の情報を同時に持って表現する神経メカニズム」の存在が確認されています。言い換えれば、「自分と他者の感情の境界が無くなる状態」にする細胞が「誰かをわかろうとする力」を生み出していそうです。

 

 私たちの大脳に備えられた「共感力」は、脳の働きを実際の行為に至らせるために、欠かせない働きも担っているようです。分子発生生物学者 ジョン・メディナ博士(米国ワシントン大学医学部生体工学科)によれば、「脳は生存を第一目的として働いているので、他者との関係を必要としています。」「生きるため」に脳が備えている機能が発育・発達するには、誰かとの関わりが必要なのです。

「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章11節)と、聖書は勧めるのです。

 

 

 

 

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