「信頼 > 信用」
校長 平田 理
氾濫する情報の中から「真偽」を見分け、必要な情報や知識を適切に役立てるには、専門家並みの知見や教養が求められるのでしょうか?ベストセラー『ファクトフルネスFACT FULLNESS』(ハンス・ロスリング著 2019)によれば、「世界の真実」の多くは、思い込みと誤解で歪められ、認識されることが多いと忠告します。そして、「賢い人ほど世界の真実を知らない」と知識人の思い込みの怖さを指摘します。確かに、データなどの事実に基づき、真偽を観察し、正しく適切な判断を下す習慣が必要な時代ですが、個人的な情報収集では限界がありますし、情報の信用度をはかる術も不明で、心許ないばかりです。個人的な思い込みや単純化、奇妙なパターン化に陥らないためには、正確な情報収集も然ることながら、異なった価値観を持つ人、生き方や意見が異なる人との出会い、換言すれば「異なった」「批評的」視点に立てるかが鍵です。更に、その視点や意見を「信頼」できることが大切です。
ネット社会での信用度は「いいね」数や「フォロワー」数で左右される傾向があります。良心的な運営が継続されている場合には、肯定的で好意的なコメントが増え、信用度も積み重ねられ、「信頼」できる店舗や人になるのかも知れません。確かに否定的なコメントが多いサイトや店舗からは、商品を購入したいとは思いません。一方で、このような信用度は、本当に「信頼」に足るものかとの疑念もぬぐい切れません。それは、「信用」が過去の実績や客観的なデータの蓄積への「信用」で、場合によっては、「買える」ものだからではないでしょうか。
私たちの人間関係において、「信頼関係」を築くことは極めて大切ですが、人と人との関係性においての、「信用関係」という言葉は一方的な対人評価のように感じ、馴染みません。人が求める「信頼」は、たとえ、その人の様々な不備不足に気が付いていても、その人の本質や品性を認め、未来への約束を双方が信じる、という極めて主観的で、感情的尺度だからかも知れません。
『心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにして下さる。』箴言3:5-6
子どもたちが出会う一大人の一人として、子どもの言うことの真偽に左右されず、子どもの未来と可能性を無条件で「信頼」し、「子どもの真実」を探り続ける大人で在りたいものです。
学校紹介「校長挨拶」はこちらをご覧ください。