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「部分になる勇気」

校長 平田 理   

 

 

 コロナ禍の折、恒例の本校クリスマス礼拝や、関東一円の三育小学校・中学校と、高校・大学が一堂に会して行う・三育合同チャリティーコンサートも開催できず、大変寂しいアドベントシーズンです。例年ですと11月から多くの時間を割いて、1~2年生は降誕劇のオペレッタ、3年生以上は讃美歌や暗唱聖句の練習が盛んに行われます。

 キリスト教学校においては、この季節は特別です。イエス・キリストがこの世にお生まれになった意味を、色々なプログラムを通して子どもたちと一緒に考える季節です。

 

 牧師であり、聖書学者であった松田明三郎(まつだ・あけみろう1894-1975)の原作で、『星を動かした少女』という散文があります。

「クリスマスページェントで、教会学校の上級生たちは、三人の博士や牧羊者の群れ、

マリヤとヨセフなど、それぞれ人の眼につく役をふりあてられた。

でも、一人の少女は誰も見ていない舞台の背後にかくれて、星を動かす役があたった。

『お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ねー』

その夜、会堂に満ちた人々は、ベツレヘムの星を動かしたものが、誰であるか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。そこに少女の喜びがあった。』

 

 神学者であり、哲学者であったパウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich1886-1965)は、人(キリスト者)には3つの勇気、「全体の部分として生きる勇気」、「個人として生きる勇気」、「肯定されている自分を生きる勇気」、言わば、人としての品格や勇気のようなものが必要だと説きました。そして、「勇気とは『それにもかかわらず』自己を肯定することであり、『それ』とは無と不安であるにも関わらず生きることである」と言います。

 

 クリスマスでこの少女が体験した「全体の部分として存在する勇気」は、社会の中にあって自分の存在が、意味のあるものかが分からなくなるような不安の中でも、誰かを、社会を支えるような勇気です。この感覚を抱くことができたのは、そこに母が「見ている」という確かな安心感があった他なりません。

 

 イエス・キリストは、その名が示す通り私たちと共におられ、希望、平安、喜びをお与えになるお方です。マリヤの夫ヨセフの夢に現れた天使はヨセフに次のように語りました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイによる福音書1章23節) 「インマヌエル」はヘブル語であり、聖書(イザヤ書7章)に著された「キリスト」を示しています。

 

 「無と不安の中」にあっても、自分を見つめ、心にかけてくれる存在を知っている生き方が大切です。「見守られている」生き方は、人間として肯定されている自分を生きることに繋がります。

 

 マタイによる福音書6章6節に、「…隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところにおられるあなたの父が報いて下さる。」と、確かに見ておられる方の存在が示されています。

 

 全てのご家庭の皆様に、Merry Christmas!

 

 

学校紹介「校長挨拶」はこちらをご覧ください。