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「放たれた矢」

校長 平田 理

 

 

 自分のしていることが相手に何を、どのように与えたかを、人は知らないことが多いのではないでしょうか。むしろ、何かを与えていると感じて接している時は、相手にとってそれは不要なもの、迷惑なことなのかも知れません。

 

「おはようございます、いってきます!!」と明るく、元気に出かけていく近所の園児の挨拶に、心が温められます。自転車のチャイルドシートから発せられるその声と明るさに、励まされ、救われるような気持ちにさえなります。勿論、その挨拶に近所のだれかのためにとか、世の中を明るくするためにといった特段の理由は無いでしょう。むしろ、家庭教育の実として習慣化された、近所の人への「ただの挨拶」なのかも知れません。

 翻って、子どもや誰かのために放つ「親身な声掛け」や、与えようとした「教育的な」助言や支援が、柔らかな心や見えない心根に思いがけない影響を与え、愕然とすることもあります。

 

 人の心は、時に問題や困難の隘路(あいろ)に入り込んで、後戻りも抜け出すこともできない状態に陥っていることがあります。自分自身の置かれている状況を俯瞰(ふかん)し、抜け出すには意図的に、誰かから見つけてもらうような機会や何らかの支援が必要です。そのような時、周囲から見れば些細な、他愛もない「挨拶」や「ほほえみ」、「ひと言」が、誰かをその隘路から導き出し、小さな幸せをもたらしてくれることがあります。むしろ、「意図されない」自然な言葉や行為にこそ「力」があると感じます。その及ぼす影響は放たれた矢のごとく、自分の知りえない時に、想像さえ及ばないところで作用していることを19世紀の古い詩『矢と歌:The Arrow and the Song』が教えてくれます。

 

  『私は大空に矢を放った 矢は私の見知らぬ大地に落ちた

  飛び去る矢は余りにも早く その行方を追うことはできなかった

  私は大空に向かって歌を唱った 歌は私の知らぬ大地に消えた

  その歌を追うことができるほど敏感で強力な視力を 持つ人はいなかった

  幾多の歳月が流れ去り 一本の樫の木に、折れずにささっている矢を見つけた

  そして、私のあの歌が何も変わらずそのまま、友の心に宿っていたのを知った』

H・W・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow,1807-1882)

 

 私たちの放つ言葉や行いが誰かを幸せに導いていくように、励ましや支えとして作用するように「・・・良いものをいれた心の倉から良いものを出し・・・心からあふれ出ることを語る」(ルカによる福音書6章45節)ように心に刻みたいものです。

 

 

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