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「知ると識る」

校長 平田 理

 

 

 

 「観る」と「見る」、「聴く」と「聞く」、「知る」と「識る」等は、同音で似ている言葉ですが、漢字の違いだけではなく、少し異なる意味があるようです。

 

 日常生活や日用品に美を認め、民藝文化を定着させた思想家、柳 宗悦(やなぎ むねよし1889‐1961)は、「見る」と「観る」について興味深い一文を残しています。

 

 『大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。』(「茶道を思う」1935年)

 

 つまり、本物や本質を見逃したり、曇らせたりする3つのもの、偏った考え方や思考、好き嫌い、怠慢や惰性が、「みえなくする」と言うのです。同じように見えるものでも、昨日と今日では違いが生まれ、受け止め方が変わっているはずにも拘らず、先入観や習慣で捉える傾向があるので、「直かに観る」ことが大切だと説きました。

 ただ「見る」だけに留まらず、外見には表れない、目に見えない価値観や人生観を感じ取ろうと、「観る」姿勢が大切だと教えてくれます。

 

 本来、「知識」とは仏教用語で「ものの本質を見極める営みや見極めようとする人」を意味したと言われます。「善知識(ぜんちしき)」は仏門の高僧を指し、全ての善い事柄は天から授かるもので、その善いことを知り、行う人たちは「知識結(ちしきゆい)」と呼ばれたそうです。

 この視点から「しる」の意味を考えると、「知る」とは表面的なことから得られる情報を「認知」すること、「識る」とは全身全霊をもって受け止め、不可視な領域さえ「認識」しようと試みることでしょうか。

 

 翻って、幼い子どもたちに接する大人の眼は「観えている」でしょうか。先入観や経験に影響され、自分の眼や心を曇らせているものに気づかず、今日の変化や成長に気づかず、子どもたちの本心や真実を「識らない」のかも知れません。

 

 聖書は、『愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、 兄弟(姉妹)の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。』(ローマ人への手紙12章9、10節)と、愛に基づいて、善に結ばれ、尊敬と慈しみをもって人に接するように勧めています。

 

 子どもたちが寝静まって、その寝顔を観ながら、「明日は叱らずに過ごせますように。」と祈る親心に、曇りや陰りは無いはずです。

 

 

 

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