新着情報 News

「輝くこと」

校長 平田 理

 

 

 

 

 しばらく前ですが、渡辺和子シスター(1920‐2016)の著書『置かれた場所で咲きなさい』(2012年刊)が話題となり、「2.26事件」の直接的な関係者家族であった著者の経歴にも注目が集まりました。文字通り「波乱万丈」の戦前戦後の時間を過ごした彼女が、留学中に出会った英詩、神学者ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr,1892-1971)の『Bloom where God has planted you』に励まされたことをご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 

「花を咲かせる」意味は、単に成功することや目立つこととは異なります。また、仕方がないと、諦めて我慢することではありません。また、置かれた場所が自分の成長や学びに向いていない場合には変わればよい、という考えでもありません。確かに、困難や悲嘆すべき場に置かれたとすれば、自力では如何ともし難い場合があります。更に逃げても、離れても変えられないこともあります。しかし、「咲けない」時があっても『咲きなさい』との薦めには、どんな意味が込められているのでしょうか。

 この詩の「咲くこと」のもう一つの意味は「輝くこと」です。誰かに置かれた場所であっても、自分で選んだ場所でも、いま立つ場所で、何を選び、考え、生きるかが「輝き」に関係しています。しかし、誰にでも「咲けない日」は必ずあります。そんな時には根を下へ、下へとおろし、咲くために必要な養分や水分を得ることが大切だと言うのです。受け容れ難い苦しみや悲しみ、不本意な時間の中にあっても、自分が逃げ出すことや咲くことばかりを考えるのではなく、小さな幸せや喜びを探し求める姿勢が、「輝くこと」になり、「咲くこと」につながっているからです。

 

 聖書には、時折、それは不可能では?という疑念にかられる言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節 

 

 自力で「いつも、絶えず、すべて」は不可能です。しかし、使徒パウロは、この「喜び、祈り、感謝」を支えている土台は「イエス・キリスト」であることを教えています。キリストの助け、支えによってのみ、不可能が「可能」となり、神様が期待しておられる生き方につながるのです。自分らしく「輝くこと」を求め、喜びと感謝を誰かに伝えたいものです。

 

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピの信徒への手紙4章13節

 

 

 

学校紹介「校長挨拶」はこちらをご覧ください