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「ごめんね」と「いいよ」

校長 平田 理

 

 

 

 紅潮した顔が「ぼくは〇〇にこんなことを言われて悔しかったんだ」と訴え、神妙な顔からは「だって、△△からこんなことをされたんだ」との説明です。授業中に言い合いになった2名が「相談するため」に座っています。

 殆どの場合、双方に何らかの問題があり口論や対立に発展します。「どちらが先に仕掛けたか」は解決の糸口にはなりますが、水掛け論になる可能性があります。少しずつ冷静になってきたところで「どうしたらいいと思いますか?」とそれぞれ尋ねると「言わなければよかった」「あやまればよかった」と自分たちの中に、既にある解決の言葉を口にします。二人とも失敗のきっかけに気がついているのですが、何かが邪魔をして「ごめんね」と「いいよ」にたどり着けません。

 

 ドイツ系ユダヤ人哲学者、思想家 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-1975)は、戦時下において民族浄化という極限の状態を生き抜いた体験をしています。彼女は『人間の条件』という著作の中で、問題を解決させるには2つの手段、「懲罰を与えること」と、正反対に「赦しを与えること」があるが、「懲罰」では問題の根源的な解決をもたらさないとの趣旨を記しています。何らかの出来事によって他者との関係が崩れた時、特に「不正な行為」によって大きな犠牲や負担を強いられた場合、「復讐」や「懲罰を与える」ことに解決の糸口を見いだそうとしますが、多くの場合苦しみます。なぜならば、知らず知らずに行ったことや間違えてしまった「行為」にどれだけ報復や罰を与えても、「行為」をなかったことにはできないからです。

 更にアーレントは、ルカによる福音書にある物語(7章36~50節)を引用して、イエス・キリストが「赦しを与えること」で問題を解決する新たな手段を示したと述べています。

 

 キリストが説く「赦し」は、内面的な浄めを含んだ罪からの解放、「神様からの赦し」を意味します。人は生きている以上、何らかの失敗や過ちを繰り返します。その結果を変えられないとすれば、それを担い続けねばなりません。残念ながら、人間の赦しには明らかに限界があります。

 心からの悔い改めと新生を願った罪多い女性の「ごめんね」に対して、キリストの「あなたの罪は赦されている」(ルカによる福音書7章48節)との言葉は、神様の愛に基づいた「いいよ」として、女性を大きく変えたのです。

 更に「安心していきなさい」(同7章50節)は「変えられない結果」や「赦されない過ち」の呪縛からこの女性を解き放ったことでしょう。

 

「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカによる福音書7章47節)

 これは真理です。

 

 

 

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