「どうせなら」
校長 平田 理
「どうせ〇〇になるでしょ」「どうせダメだって言うんでしょ」「どうせ〇〇だよ」
子どもたちの口から時折聞かれる「どうせ」発言が気になります。結果はわからないにも関わらず、予想される結果を初めから決まったことのように感じている言葉です。「あきらめ」や「すてばち」な気持ちが根底にあるように感じます。「所詮」「結局」も同様に、自分自身への過小評価や自信の無さ、時には軽蔑的な思いも加わるのでしょう。経過や中途での小さな努力や大切な気づきがあるにも関わらず、消極的で後ろ向きの考え方が優先されるようです。大人でさえも多くの場合、「どうせ」発言の考え方に近づいてしまうのですが、自分に足りない部分を素直に認めて「どうせなら」「せっかくだから」の自分への肯定的な感情を増やせると「予想される結果」は想像を越える良いものになるのかも知れません。勿論、それ以下の結果かも知れませんが、そこに至るまでの経緯、努力、気づき、理解を蓄積できるのではないでしょうか。
イエス・キリストの弟子たちは漁師でしたから、魚を獲ることに関しては知識も経験も豊富でした。ところが群衆に話し終えたイエス・キリストから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と助言された物語(ルカによる福音書5章1~11節)があります。前夜に夜通し苦労して何も得られなかった弟子たちは、当然のことながら「漁師が苦労したにも関わらず漁獲ゼロ」「昼間から漁をする漁師はいない」との思いを抱きました。しかし、「素人の助言」に疑念を抱きつつも「お言葉(せっかく)ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、再挑戦します。その結果は想定をはるかに超えた結果(豊漁)であったのです。
この物語は色々な困難や苦労、失敗を「恵まれた機会」「貴重な体験」として、「どうせなら」「せっかくだから」と切り替え、期待した結果が得られなくとも挑戦する姿勢が成長の鍵であることを教えてくれます。自らが設定している限界や既成概念にとらわれ、「どうせ」の思考が貴重な体験や努力の機会を奪っているのかも知れません。
シモン・ペテロは自分の知識や経験という「どうせ」の基準から、イエス・キリストの基準を「どうせなら」「せっかくだから」と、小さな勇気と素直さで受け入れ、直ぐに行動に移したのです。
それは豊漁という結果ばかりか、彼自身の生涯を決定づける選びにつながりました。
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