「Accessibility:アクセシビリティ」
校長 平田 理
久しぶりに日本万博(1970年大阪開催)で建設された「太陽の塔」を眺める機会がありました。懐かしい気持ちと共に「顔」がいくつあったか思い返しました。見ているとわかる2つ、知っているとわかる3つ、更に調べるとわかる4つの顔があります。「太陽の塔」には外から見える3つと、現存しないのですが、内部にある4つ目の「顔」がありました。「見える人」は自分が得られる視界や視点から情報が入力され、外側には「アクセスしやすい」のですが、見えない場所には「死角」が生まれ「アクセスできない」ことがあります。想像力や情報量の差によって3つめ、4つめの顔の存在が増減します。
英語の「Access:アクセス」(意味:接近、通路、入口など)は、近づくことを意味し、「アクセスできる・できない」「アクセスランキング」など様々な場面で利用されています。
「太陽の塔」の顔を眺めながら、情報格差や利用難易に用いられる「近づきやすさ、利用しやすさ」を意味する言葉「Accessibility」について考えさせられました。ホームページやアプリケーションを利用する際に、操作や入力内容の難易度が低ければ「アクセスしやすい」、施設や建物が見えにくい、入口や駐車場が分かりにくい、使いにくい場合は「アクセスしにくい」ことになります。
翻って、人間同士のアクセシビリティの難易度はどうでしょうか、他者から「アクセスしにくい」人間になっていないでしょうか。もちろん、笑顔や挨拶、表情は、外見的な印象を発信し、視覚から理解できますからとても大切です。
一方で「太陽の塔」の4つ目の顔の存在から考えると、自分ばかりか他者の内側にも「顔」が潜んでいること、内面を感じる察知力や想像力も大切なアクセシビリティなのです。個性や特性の違いによって能力や機能に制約や偏りがあっても、人間理解での「死角」は少ないに越したことはありませんし、何より誰からも「アクセスしやすい」人間でありたいものです。
「・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上 16章7節 新共同訳)
容姿や身体的な特徴といった外見にばかり目を向けて、判断や評価するのでなく、心の中にある大切な「顔」を見つめる必要を聖書は説きます。心の眼で見る力を求めて、アクセシビリティを磨きたいものです。
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