「愛されている感じ」
校長 平田 理
「先生は聖書で好きな場所(書や手紙)はどこですか?」
「たくさんあるなぁ」
「僕はヨハネによる福音書が好きなんですよ」
「それはどうしてですか?」
「だって、神様に愛されている感じがするんです。」
春の祈祷週中で突然交わされた会話です。お昼休みの祈祷会で、たまたま一緒にお祈りをささげた低学年児童のよどみないコメントに大いに驚かされ、感心しました。聖書の学びの大切な核心を見事に捉えていました。更に翌朝、その児童たちによってささげられた特別讃美歌に心を打たれました。
「祈り求めます。憎しみをすてること。お互いに愛し合い、信じあうことを。・・・主よ、慰められるより慰めることを学び、愛されることよりも、愛することを教えたまえ・・・互いに赦し合うこと・・・主と共に生きること。」
「好きな聖書の場所」であるヨハネによる福音書には、確かに、神様の愛を示す言葉が数多く示されています。聖書を学んで日の浅い幼い魂に、聖書の言葉が沁み渡っていることを窺い知り、心から感謝しています。
それにしても「愛されている感じ」はどんな感じなのでしょうか?必要が満たされている、温かい気持ちになる、嬉しさや喜びに溢れる・・・。心の中にある見えない感覚を「確かなもの」として聖書の「言葉」から感じ取っているのでしょう。ヨハネによる福音書15章は「イエスはまことのぶどうの木」のたとえが記されていることで知られています。ぶどうが豊かな実りを得るためには、枝が幹につながっていることが大切で、離れてしまえば枯れて、失われる存在であることを教えています。同様に、神様と人とのつながりが命の喜びに預かることを示しています。
「・・・わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章11,12節)
互いに愛し合い、信じ合う関係が、ぶどうの木の幹と枝の関係を通して分かり易く説明され、互いに愛し合うことを通して、神様の愛を感じるように勧められています。子どもたちは、ご家族との関係で、お友達との関係で、「愛されている感じ」を繰り返し学び、実感するのでしょう。
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